信念と骨のある政治家・後藤田正晴が語る、率直な人物評に興味津々・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1667)】
我が家の庭の季節による変化は、庭師(女房)の報告で知ることが多い。ホウキギ(ホウキグサ、コキア)が赤紫色に、ハナミズキが赤く紅葉しているではありませんか。片隅では、キクが赤紫色の花、バラ、ナンテンが赤い実を付けています。因みに、本日の歩数は10,642でした。
閑話休題、私にとって、現代の官僚・政治家で最も興味ある人物は、後藤田正晴です。その後藤田の約2年半、27回、60数時間に及ぶオーラル・ヒストリーをまとめた『情と理――カミソリ後藤田回顧録』(後藤田正晴著、御厨貴監修、講談社+α文庫、上・下)で、とりわけ目を惹くのは、後藤田が語る率直な人物評です。
昭和26年、朝鮮戦争の最中にダグラス・マッカーサーが国連軍司令官を解任されたことについて尋ねられて、こう答えています。「まさに政治が軍人を支配しているという印象でしたな。とてもあれだけの戦争の功労者を、トルーマンという選挙を経ていない大統領、大統領が死んで副大統領から昇格した人が、マッカーサーの首が切れるなんていうことは、やはりアメリカという国は素晴らしい国だという気がしました、率直に言って。ぼくらの常識では切れない。選挙を経た大統領であれば別だけれど、選挙の洗礼を受けていない人ですね。偉いなあという気がしたね。そして、軍人はひとことも文句を言わなかったな」。マッカーサーを解任したのは、トルーマンが大統領選挙に勝利した後のことだから、一部、後藤田に勘違いがあったようだが、この一節から、後藤田がアメリカの凄さを実感したことが生き生きと伝わってきます。
田中角栄について。「僕は田中角栄先生の子分だと今でもいう人がたくさんおりまして、まさにその通りだけれど。説明して陳情するときに、あの人ぐらい早く中身を飲み込む人はいない。理解が早い、そして即決する。わかった、と言ったら必ず実行してくれている。どれで難しいことになると、あの人は、できない、とは言わないんだね。『それは後藤田君、難しいぞ、しかしやってみるわ』と言う。それでやってくれる。あの人は見通しが確かなものだから、難しいぞ、というときはできないことが多い。できることもある。必ず努力してくれる。そして必ず結果の報告が事前にある。この人ぐらい頼りになる人はなかったね」。
岸信介の総理就任について。「僕は個人的には、戦犯容疑で囚われておった人が日本の内閣の首班になるというのは一体どうしたことかという率直な疑問を持ちました。文字通り統制経済の総本山の方ですよね。そして中央集権主義的な行政のあり方、政治の主張、これを色濃く持っている方ですから。私はたまさか課長から局長のとき、あの人の幹事長時代にお会いしたことがありまして、大変な素晴らしい能力の方だという印象を持つとともに、率直なところ、いま言ったような気持ちを持っていました。これは、戦争に対する反省がないからです。それが、いまにいたるまでいろいろな面で尾を引いている。・・・ですから、岸さんが総理になったときは、これはいかがなものか、と思いました」。現在の安倍政権のやり様を予言しているかのような発言です。
福田赴夫と田中角栄の人柄について。「両方とも好きだな。片方は役人上がりだし、片方は天衣無縫で天才的なひらめきの人ですから、まるきり違う。だけれども両方とも人を惹きつけるところがあった。福田さんもひょうひょうとして人を惹きつけるところがありましたよね。あれはいい人だな、と思うね、僕は。話が非常にしやすい人。田中さんとまったく同じだ。・・・福田さんは温かい感じがする人だな。だから僕は野沢の福田さんの家にはときどき行きましたよ」。二人の一番違う点は、と問われて、「片方は、すべて話に飛躍がない、というよりは論理的に行くね。片方はパッパッと飛躍する。それが見当違いにならないんだ、角さんは。僕らからみると奇想天外の発想をすることがあるな。よく考えてみるとなるほどなという感じだね。福田さんの方は理詰めの話ですね。それで非常に温かみがある人だ。やはり僕は政治家の中では優れた人だと思うな」、
田中角栄の中曽根康弘評について。「私が選挙に初めて当選した昭和51年から52年頃には、中曽根さんが総理総裁になれるという声はほとんどなかったんです。派閥の長ではありましたけれどね。それなのに、僕が田中さんに、『中曽根さんは総理大臣になれますかいな』と聞いたところ、『それはきみ、三木君がなったんだよ、中曽根君はなれるよ』と言下に言った。しかし、その時はこうも言ってました。『総理大臣というものは、なりたいと思ってなれるポストではないよ、これは運がつきまとうな』と。ということは、田中さん自身は、やはり同期生として中曽根さんをずっと見続けていますから、派閥としては対立する派閥だったけれども、中曽根さんを評価しておったということは間違いありませんね」。
後藤田自身の中曽根評について。「少数の派閥で党内基盤は弱いんですよ。にもかかわらず、5年間という、佐藤内閣、吉田内閣に次ぐ戦後長期の内閣の記録を作ってそれなりの成果を収めたというのは、やはり中曽根さん自身が、基本的には非常に高い能力があったのではないかなと思います。成果を見ますと、私は厳しく60点カスカスと採点しているんだけれど・・・戦後から今日までの総理大臣の中でも、私はまずは出色の総理大臣だったと思います」。
昭和62年9月の、ペルシャ湾安全航行確保のため、交戦海域に自衛艦を派遣すべきか否かという意見対立について。「中曽根さんから私に、海上保安庁から武双した巡視艇、あるいは海上自衛隊の掃海艇を派遣したいという相談がありました。・・・私が言ったのは、ペルシャ湾はすでに交戦海域じゃありませんか、その海域へ日本が武装した艦艇を派遣して、タンカー護衛と称してわれわれの方は正当防衛だと言っても、戦闘行為が始まったときには、こちらが自衛権と言ってみても、相手にすればそれは戦争行為に日本が入ったと理解しますよ、イランかイラクどちらかがね。そうすると、他国の交戦海域まで入っていって、そこで俺は自衛だと言ってみても、それは通りますか、と言った。それがひとつです。もうひとつは、『あなた、これは戦争になりますよ、国民にその覚悟ができていますか、できていないんじゃありませんか、憲法上はもちろん駄目ですよ』と言った。そして、『私は賛成できません、おやめになったらどうですか』と申し上げたんです。しかしなかなか強硬でした。外務省も強硬だし中曽根さんもそうでした。・・・中曽根さんも最後に、それじゃあ後藤田さん、やめます、ということで、これはやめたんです。なぜ私がそこまで強硬に言ったかというと、国民全体がそこまで覚悟ができていない。いざとなったら戦になる。それは憲法の問題にもなりますが、これは日本の根幹部分にも関係するよ、ということが私の頭の中にはあって、これで軽々にアメリカが言うからといってやるべき筋合いではない、ということがひとつです」。今や、こういう信念と骨のある政治家が見当たらいことは、日本の悲劇ですね。
政権獲得について。「私は多くの政界の領袖、特に総理総裁の座を巡っての争いを見てきたわけですが、人によって、そしてまた仮に政権の座に就いてみても、こういったトップの座に上がるという人は、強い運の下でなければなかなか頂点の座には就けない。就いてもうまくいかない、ということで、政治家と運命、運勢というものを私自身強く感じます」。
憲法改正について、改正論者の主張は、今の憲法は自主ではないというんでしょうと問いかけられて、こう答えています。「マッカーサー憲法だと言うわけです。しかし僕の考え方では、マッカーサー憲法と言っても、それは平和主義なり、基本的な人権なり国際協調なり、ある意味における普遍的な価値というものは、日本の中に定着しておるのではないか、だから、マッカーサーが作ったんだから変えるという時代はもはや過ぎたのではないかと。こういった価値を基本にしながら、どういうことで新しい憲法を作るのか。・・・自主憲法を言う人たちの頭の中に持っているのは、再軍備ではないか、それには僕は反対だと言っているわけです」。戦争反対、憲法改正反対という後藤田の固い信念が鮮明に表現されています。
後藤田自身については、「『理』の官僚から『情』の政治家に自己革新を遂げた」と述懐しています。
現在の政治家全員に拳々服膺してもらいたい書物です。