榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

大人の恋愛小説を味わう愉しみ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(70)】

【amazon 『残りの人生で、今日がいちばん若い日』 カスタマーレビュー 2015年5月11日】 情熱的読書人間のないしょ話(70)

「一番の至福の時は?」と聞かれたときは、こう答えています。「好きな絵や写真に囲まれた書斎で、好きな音楽を聴きながら、好きな本を読んでいる時」。その写真のうちの一枚が、初夏の散策中に撮った39歳だった女房のスナップショットです。

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閑話休題、今、読み終わったばかりの『残りの人生で、今日がいちばん若い日』(盛田隆二著、祥伝社)は、39歳のバツイチ子持ちの出版社編集者・柴田直太朗と、これも39歳の、婚活がうまくいかず、仕事に追われている書店員の山内百恵の物語です。この年齢になると、若者のように何もかも純白というわけにはいきません。仕事の場で出会った二人は、シングルファーザーと9歳の娘との関係、6年前に別れた妻の心の病、長い不倫関係の末、3年前に去っていったずっと年上の男、抱えている子宮筋腫への不安、25年前に生き別れになった父親からの突然の知らせなどなど、複雑な事情を抱えています。

「でも、百恵に対してはそうではなかった。恋愛感情を抜きにして、一人の女性として強く意識する。この人と親しくなりたいとか、露骨に言えば自分のものにしたいという欲望ではなく、この人のことをもっと知りたいと思う。この歳になるまで、それは経験したことのない心の動きだったので、直太朗は少し戸惑った」。

「でもそれは、柏原と別れてから3年、新しい恋をする気にもなれないのに、結婚願望が高まるばかりの自分を持て余してきたからだろう、と百恵は思う。1年分の会費を前払いした結婚相談所も半年で脱会してしまい、そうして昔なら初老と呼ばれる年齢に近づいたいま、子どもに愛情を注ぐことで得られる母親の幸せがこの世でもっとも確実なものだと思うようになった。病院の待合室には赤ちゃんを連れた若い母親が多く、誰もがひどく疲れた顔をしていたが、疲れた分だけ幸せになれそうに思えるのだった」。

「この3年、恋愛から遠ざかっているうちに私はすっかり浮世離れしてしまったんだろうか。小動物のように愛くるしい葉摘(直太朗の娘)を見ていると、自分がまるで両手できつく絞った形のまま乾いてしまった雑巾のようにさえ感じられる。百恵はつかのま呆然としたが、菜摘は信頼しきったように話しかけてきた」。

百恵の菜摘との会話。「ねえ人生って、なかなか思い通りにいかないものよ。そんなにつらいことばかりじゃないけどね。・・・ごめん、どうかしてる、私。小学4年生の子に何を言ってるんだろうね。いい歳をした大人が泣き言なんて、恥ずかしいよね」。

「ホームを歩き始めた、そのときだった。百恵は軽く息を呑んだ。菜摘が何も言わずに手をつないできたのだ。百恵はそっと握り返した。手の温もりとともに、菜摘の緊張感が伝わってくる」。

「あなたに話を聞いてもらいたい。その言葉に百恵は強く心を動かされた。書店員と出版社の社員としても、それほど頻繁に顔を合わせているわけでもないのに、いつのまにかこんなに近しい関係になっていた。男女の関係とは程遠いのに、これほどまでに相手から信頼されている。百恵にとってそれはまったく初めての経験だった。・・・まだそれほどよくは知らない男性に真正面からそう言われることの不思議。ああ、私はこんなに信頼されているんだ。気持ちが高揚する中で、逆に私はどんな話を聞いてもらいたいのか? 自分に問いかける。指一本触れていない相手にこんなにも近しさを感じる不思議。でも、そんな思いを口に出したら、あまりにも普通すぎて、不思議感がなくなる」。

「あの夜、不忍池のほとりでぎゅっと手をつなぎ、押し黙ったまま園内の暗がりを通り抜け、上野駅前のまぶしい光とクラクションの喧騒の中で、直太朗はぽつりと言ったのだ。『好きになってしまいました』」。

これは、大人の恋愛小説であると同時に、家族小説でもあるのです。