5世紀末~6世紀前半に、朝鮮半島に前方後円墳が出現したのはなぜか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1684)】
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閑話休題、『「異形」の古墳――朝鮮半島の前方後円墳』(高田貫太著、角川選書)には、思いも寄らないことが書かれています。
「おおよそ5世紀の終わりから6世紀前半にかけて、朝鮮半島の西南部、栄山江流域に前方後円墳が営まれた。このことが確定的となったのは、1990年代前半のことだった。以来、日本と韓国の考古学や古代史の学界において、そこに葬られた人の姿や歴史的な性格について、さかんに議論がつづいている」とあるではありませんか。
「前方後円墳は日本列島独特の墳墓である。それがきずかれた範囲は、ヤマト政権の支配する範囲、東アジア世界では倭とよばれていた範囲とおおむね一致する。それなのになぜ、朝鮮半島の西南部、栄山江流域にまで前方後円墳がひろがっているのか。それがきずかれた栄山江流域は、ヤマト政権の支配下にあったのか、倭の一部だったのか」。
現地調査を含めた、著者の緻密な研究・考察によって、徐々に、その謎が明らかになっていく過程は、推理小説のような興奮を覚えます。
「栄山江流域の前方後円墳は、栄山江流域社会を形づくる現地集団や小地域と関係なく、倭人が勝手にきずいたようなものではない、ということだ。そうではなくて、栄山江流域の諸集団が、地域ネットワークを活用して百済、倭、伽耶などとつながる中で墓制についての人、物、情報を受容し、それを取捨選択しながら成立させた墓、とみなければならない」。
「前方後円墳や倭系円墳の被葬者は、現地集団の首長層とみるのが自然だ。倭や百済などと密接につながり、小地域をそれぞれ統括し、そこを政治経済的な活動の本拠地とするような姿である」。
著者の推考は、さらに広がりと深さを増していきます。「このような社会の周縁の現地集団が、栄山江流域を統合しようという百済の思惑を敏感によみとったのではないか。そして、百済への全面的な編入を是とせずに、なんとかしてみずからの経済的な既得権益や政治的な主体性を守ろうとした。その方策のひとつが、前方後円墳や倭系円墳をきずく一連の活動を通して、海の向こうの倭とのつながりを百済にアピールすることだった。当時の百済にとって倭は重要な同盟相手だ。このことは多くの研究が明らかにしている。その倭と緊密につながっていることを対外的に誇示することによって、百済との一定の距離を保ち、その統合の動きをおさえたい。このように考えて、たがいに連携しながら、前方後円墳の造営に踏みきったのだろう。以上のように、前方後円墳には現地集団の百済への対応という思惑があった。倭にとっても栄山江流域は古くからの交渉相手だったので、その動きに⑦積極的に協力することで、つながりを深めようとしたのだろう」。
「(栄山江流域の前方後円墳は)栄山江流域社会、倭、百済などの思惑が複合的に重なった「多義性」をもつ墓、モニュメントとみるべきだ。ここに『ネットワーク型』の栄山江流域社会における前方後円墳造営の歴史的意義がある」。
それでは、栄山江流域の現地集団の目論見は叶えられたのでしょうか。「前方後円墳というモニュメントによってみずからの主体性を守ろうとした、栄山江流域社会(に属する現地集団)の動きは、結果的には失敗した。それによって現地集団の対外活動は百済王権によって大きく規制された。だから、栄山江流域における前方後円墳の造営が、5世紀の終わりから6世紀前半に限定されたようにみえるのだ」。この段階をもって、百済による栄山江流域の社会統合が一応の達成をみたのです。