榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『徒然草』の学習参考書を軽んじてはいけません・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1729)】

【amazon 『要説 徒然草(増訂版)』 カスタマーレビュー 2020年1月9日】 情熱的読書人間のないしょ話(1729)

今日の昼の月は、驚くほどの大きさです。パンジーの花、ポインセチアの苞、ヒイラギナンテンのマホニア・チャリティーという品種の花、ナンテンの実、オタフクナンテンの葉、ハボタンの葉をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は10,835でした。

閑話休題、『要説 徒然草(増訂版』(日栄社編集所著、日栄社)を数十年ぶりに読み直して、学習参考書を軽んじてはいけないと痛感しました。これまで、『徒然草』の本文、注釈書、研究書などを渉猟してきたが、本書はそれらに勝るとも劣らない内容を備えているからです。

巻頭の「解題」で、作者の兼好法師がこのように紹介されています。「その根本の思想は、人生のはかなさ、すなわち無常観を教える仏教思想を根幹とし、これに虚無を根本として無為自然が一番よいものであるとする老荘思想を配して、脱俗ということを説いている。しかしまた一方、平安朝的・古典的な優美な情趣と知性とにあこがれ、そういう学芸・教養を説く段も多く、さらにまた、作者が直接間接に見聞した当時のさまざまな事件を書きとめた記事も多く、これらは必ずしも仏教思想によってはいない。こうした多方面にわたった内容こそ、じつは作者の経歴・教養・思想などをしのばせておもしろいところで、自然観・人生観・趣味観や生活についての教訓、故実考証、逸話や珍聞奇談などさまざまな内相を、その博識・体験・思索を裏に包んで、世なれた人としての態度で説いているのである」。

よく知られている冒頭部分――。<つれづれなるままに、日ぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ>。「する事もなく退屈で心さびしいのにまかせて、一日じゅう硯に向かって、次から次へと心に浮かんでは消えてゆくくだらないことを、とりとめもなく書きつけてみると、(自分ながら)じつに変で、気ちがいじみているような気がする」。

外見と内面について――。<人は、かたち・ありさまのすぐれたらむこそ、あらまほしかるべけれ。ものうちいひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、ことば多からぬこそ、あかず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、心おとりせらるる本性見えむこそ口をしかるべけれ。品かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか賢きより賢きにも移さば移らざらむ。かたち心ざまよき人も、才なくなりぬれば、品くだり、顔にくさげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ本意なきわざなれ>。「人は、容貌や姿がすぐてれているのが、望ましいことであろう。何かちょっと話しているのを聞いても感じがよく、かわいげがあって、口数の多くない人は、いつまでも飽きることなく、対座していたい気がする。(しかし容貌や姿だけではだめで)見てりっぱだと思われる人が、(何かの機会に)思っていたよりつまらない人だと感じられるような、本来の性質をあらわすことがあったら、残念に感じられるであろう。家がらや容貌は生まれつきのもので(変えることはできない)だろうが、心はどうして、賢い上にもなお賢くも、変えようと思えば変えられないことがあろうか、(必ず変えることができるはずである)、(しかし、さらに)容貌と気だてとがともによい人も、学問・芸能がないとなると、家がらも低く、顔も憎々しい人の中にまじって、問題にもされずに圧倒されるのは、まことに残念なことである」。

死について――。<世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年をくらすほどだにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢のここちこそせめ。住みはてぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせむ。命長ければ恥多し>。「この世は無常である点がたいそうよいのである。(いったい)生命のあるものを見ると、人間ぐらい長生きをするものはない。かげろうが(朝生まれて)夕方にならないうちに死んでしまい、夏の蝉が(夏だけの命で)春や秋を知らない(というような短命なもの)もあるのだよ。(これらにくらべると)心しずかに一年を過ごすくらいの間でも、ずっとのんびりとした気持ちがすることだ。(反対に)いつまで生きても不足で、死ぬのが惜しいと思うならば、たとえ千年も生きていても、まるで一夜の夢のようなはかない気持ちがするだろう。(どうせ)永久に生きていることはできないこの世において、(年をとって)みにくい姿になるまで生きていたってなんになろうか。(古人も言ったように)長生きをすると、恥をさらすことが多い」。

友について――。<友とするにわろきもの七つあり。一つには高くやむごとなき人、二つには若き人、三つには病なく、身強き人、四つには酒を好む人、五つにはたけく勇めるつはもの、六つにはそらごとする人、七つには欲深き人。よき友三つあり。一つには物くるる友、二つにはくすし、三つには知恵ある友>。「友とするのによくないものが七つある。第一には身分が高く高貴な人、第二には若い人、第三には病気を持たず、身体の強い人、第四には酒を好む人、第五には強く勇んでいる武士、第六にはうそをつく人、第七には欲の深い人。よい友には三つある。第一に物をくれる友、第二には医者、第三には知恵のある友」。

賞味する時期について――。<よろづのことも始め終はりこそをかしけれ。男女の情けも、ひとへにあひ見るをばいふものかは。あはでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色このむとはいはめ>。「(月や花に限らず)すべてのことも、(そのさかりの時よりも)始めと終わりとがとくにおもしろい。男女の間の恋も、いちずに恋が成就することばかりを(恋と)いうのであろうか、(いや、そればかりが恋とは言えない)。恋が成就しないままで終わってしまったつらさをしみじみと思ったり、長続きしないで終わってしまった恋を嘆いたり、長い秋の夜を(恋人とともに過ごすことができないで)ひとりさびしく明かしたり、遠く離れた所にいる恋人のことを思いやったり、浅茅の生えたあばら屋で、昔(そこで恋人と逢った時のことを)しみじみと思い出したりするのこそ、本当に恋の情趣を解するものと言えよう」。

『平家物語』について――。<この(信濃の前司)行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて山門のことを、ことにゆゆしく書けり。九郎判官のことは、くはしく知りて書きのせたり。蒲の冠者のことは、よく知らざりけるにや、多くのことどもをしるしもらせり。武士のこと、弓馬のわざは、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生まれつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり>。「この行長入道が平家物語を作って、生仏(しょうぶつ)といった盲目に教えて語らせた。それゆえ比叡山延暦寺のことをことにりっぱに書いてある。九郎判官義経のことは、くわしく知っていて書きのせてある。蒲の冠者範頼のことは、よく知らなかったのであろうか、多くのことを書きもらしている。武士のことや弓や馬のことは、生仏が東国生まれの者だったので武士に尋ねて(行長に)書かせた。あの生仏の生まれつきの声を、今の琵琶法師はまねをしているのである」。

各段に付されている「読解の要点」、「解説」が秀逸なことに驚かされました。例えば、第三二段の「読解の要点」の一節は、このように書かれています。「そのたずねて行った家の主は、あとの『妻戸を今すこし・・・口をしからまし』によって、この(たずねて行った)人の愛人であると察することがたいせつである。これは低学年の諸子には無理かも知れないが、古文に慣れることによって、だんだん、こういう勘を働かせることができるようになりたい」。

第三八段の「解説」は、こんなふうです。「名利を求めることのおろかさを説き、さらに知恵と心とにおいてすぐれようとすることもまたおろかであると説く。つまりなんでも、何かを求めようとあくせくするのはばかげたことだというのであって、無為自然をたっとぶ老荘思想によっての立論である。諸子は必ずしもこの説に賛成しないでもよいが、こういう考えかたのあることは知っておいてよかろう。――この段は今までの文章と趣を異にした漢文直訳体の文章で、内容にふさわしい文体を用いていると言うことができる」。これは、学習参考書の域を超えて、見事な人生論になっているではありませんか。