藤原正彦の読書、書店に関する見解に大賛成・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1893)】
トケイソウ、アメリカノウゼンカズラ、アガパンサス、クチナシ、アジサイの仲間のアナベルが咲いています。ブドウが実を付けています。農家の女性から、穫れたてのエダマメとネギを購入しました。我が家の庭には、毎日、入れ替わり立ち替わり、アゲハチョウを始め、いろいろなチョウがやって来ます。
閑話休題、『本屋を守れ――読書とは国力』(藤原正彦著、PHP新書)の著者・藤原正彦と私の政治に対する考え方は異なるが、読書、書店に関する見解は一致しています。
●スマホの使用時間を調べると、中学生で平均1日2時間。平均ですから当然、3時間、4時間、5時間を費やしている生徒もいる。その間、奪われているのが「本を読む時間」です。スマホの最大の罪はまさにこの一点、「読書の時間を奪っていること」に尽きます。あるいは「孤独になる時間」を奪っている、といってもよい。人間の深い情緒は、孤独な時間から生まれます。暇や寂しさを紛らわせるため、スマホゲームに没頭し、LINEやメールのやりとりでせっかくの孤独な時間を台無しにされてしまう。人間にとって最も大事な読書の時間を、スマホという名の麻薬が強奪しているのは大罪です。
――「スマホという名の麻薬が、人々から読書の時間、孤独になる時間を強奪しているのは大罪」という著者の危機感は、私の気持ちを代弁してくれています。
●国民はインターネットや携帯電話で知識が得られて便利と思っているようですが、インターネットを一日中、見たところで得られるのはせいぜい「情報」止まり。情報もビジネスには必要ですが、大した「知識」にはなりません。情報というのは「知識」や「教養」まで高めなければ使い物にならいないのであって、三者のあいだには隔絶した違いがある。情報を知識、教養にまで高めるには、結局のところ本を読むしかない。
●情報というのは、それぞれが孤立しています。孤立した情報が組織化されて、初めて知識になる。「情報がつながること」が知識であり、さらに「知識がつながること」が教養。この段階を歩むことが、教養を高めることの意味です。われわれは本を読んだあと、物語や記述の内容に思いを巡らせたのち、今度は身の周りの現実に当てはめて再び考える。この読書時の脳の働きが、人間の教養を育むわけです。インターネットでは得られない経験です。
――この情報、知識、教養の定義は、数学者だけあって明快で、説得力があります。
●最も重要な点は、「教養がないと大局観が生まれない」こと。そして大局観のない人は判断を誤り、周囲の人を不幸にします。政・官・財のトップを見ても、つくづく昔に比べて大局観がない、と感じますね。なにも日本のリーダーに限った話ではありません。世界の指導者を見てごらんなさい。
――同感です。
●人は何歳であっても、良書を読むことで瞬時にもう一段、高い境地に達することができるのです。自らの人生に足りない経験を補い、新しい世界に導いてくれる本の価値を味わうことなしに人生を終えるのは本当にもったいない。
●私の父は本に囲まれ、死の前日まで執筆しながら人生を終えました。祖父も曽祖父も、本とともに生き、死んでいった。私もまた、同じようにするでしょう。命尽きる最期の一分一秒まで己を高め続け、前のめりに斃れる。これが人間としての理想の死に方でしょう。「本に埋もれて死ね」がわが家のモットーです。
――我が祖父、父も本に囲まれた生涯を送りました。私も棺桶に入る直前まで読書を続けたいと念じています。