偉大な業績を上げた男性の陰で埋もれてしまった、才能ある女性たちの生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1908)】
伊藤小坡の昭和7年の作品「夕ぐれ」は虫売りを描いているが、私が子供だった昭和20~30年代も、夏になると、竹で作った虫籠に入れられたキリギリスがあちこちで売られていたことを懐かしく思い出しました。
閑話休題、『才女の運命――男たちの名声の陰で』(インゲ・シュテファン著、松永美穂訳、フィルムアート社)は、それぞれの分野で偉大な業績を上げた男性の陰で、自らの才能を発揮できずに終わった女性たちにスポットライトを当てています。
レフ・トルストイの妻、ソフィア・アンドレイェヴナ・トルストヤ、カール・マルクスの妻、イェニー・ヴェストファーレン・マルクス、ローベルト・シューマンの妻、クララ・ヴィーク・シューマン、オーギュスト・ロダンの愛人、カミーユ・クローデル、アルベルト・アインシュタインの妻、ミレヴァ・マリチ・アインシュタイン、ライナー・マリア・リルケの妻、クララ・ヴェストホフ・リルケのケースも興味深いが、一番強く印象に残ったのは、スコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダ・セイヤー・フィッツジェラルドの悲劇です。
「もっともてっとりばやいのは、ふさわしいパートナーを見つけ、彼を通じて自分の芸術的野心の実現をめざすことではないだろうか? この『ふさわしいパートナー』を、ゼルダはスコット・フィッツジェラルドのなかに見いだすことになる。彼女より4歳年上だったスコットは、1918年に『ご当地の有名人』だった18歳のゼルダと出会ったとき、雷に撃たれたような気がしたという。・・・二人とも、まったく自然に、相手がなくてはならない存在であることを理解するようになる。『ゼルダ』と『スコット』、伝説的な夢のカップルとして同時代人の回想のなかに生き続ける彼らは、こうして結ばれたのだった。しかし、二人がお互いに抱いていた関心は、実は大変に異なるものだった」。
「彼女の手紙の独特な美しさはスコットに強い印象を与えた。また、ゼルダの日記も彼に感銘を与え、彼は晩年の作品で彼女の日記の文章をそのまま使っている。ゼルダ自身や彼女の派手な生活だけではなく、彼女の書いたテキストまでがスコットの創作にとっては使いでのある素材となったのだった。そのことがパートナーの生活や才能をむさぼる吸血鬼のようなやり方だという自覚はスコットにはなく、自分の創作活動に必要なものならなんでも利用するのが芸術家の当然の権利だ、と彼は考えていた」。
「(結婚後の)美しい調和のイメージはしかし、偽物だった。うわべが壮麗でも、その背後では、当事者にしかわからない形で、殺人的な闘いが始まっていた。その闘いが結局はゼルダを精神病院へと追いやり、スコットも狂気の淵にまで追いつめられていくのである。ゼルダがスコットの小説『美しく呪われた人たち』について書いた書評には、二人の結婚生活を最後には破壊してしまうことになる葛藤が、いささか冗談っぽく語られている。<あるページにわたしは、なぜだかわからないけれど結婚してすぐのころになくなってしまった、自分の古い日記の一節を見つけました。いくつかの手紙の文章も、ずいぶん変えてはあるけれど、見覚えのあるものでした。フィッツジェラルド氏は(確かこういうお名前だったと思いますが)まずご家庭で盗作をお始めになるおつもりのようですね>」。
「事実、多くの友人や知人は、彼よりもゼルダの方が才能がある、と噂していたのだ。・・・ゼルダの方はスコットが彼女の作品を横取りしてしまうことに苦しんでいたし、スコットの方はゼルダの執筆活動に困惑させられていた。ゼルダは明らかに、スコットとの関係において自分の個性がどんどん消されてしまうことにも悩んでいた」。
「ダンスをしながら、ゼルダは小説を書くことにも精力を傾けた。しかし、女性の生活をテーマに書かれた6つの小品のうち5つはスコットの名前で発表されることになった。スコットの告白によれば、彼はテーマに関して多少の提案をし、ゲラを読み、自分の名前を貸す以外にはほとんど手伝いもしなかったのだが・・・。スコットは小説で多くの成功をおさめ、その時代のアイドル作家となったが、その彼の小説に対するゼルダの貢献が、彼が彼女に与えていたものとは逆に非常に大きいことを考えると――なんといっても彼は著作権など気にすることもなく、彼女のテキストから段落全体を抜き取って自分の小説に使ったりしたのだから――ゼルダのなかで、自分は搾取されているという気持ちが強まっていったことも理解できる。ダンスの分野でも『独自のもの』を築き上げるのは不可能だということがはっきりしてくると、彼女は倒れ、そして1930年に自殺未遂事件を起こしたあと、病院に入れられることになった。その後18年間もヨーロッパやアメリカのさまざまな精神病院を転々とすることになる生活は、こうして始まったのだった。そしてそれは、ゼルダとスコットのあいだに繰り広げられた、情け容赦のない闘いの始まりでもあった。二人は、それぞれが『正当な素材』とみなすものをめぐって争った。『素材』とは結局ゼルダの人生のことであり、本当はそれはゼルダ一人のものであるはずなのだが」。
「スコットが医師たちの前で自分を正当化しょうとして語った事柄は、いささか不気味な内容だった。彼はくりかえし、自分自身の名声がどれほど重要なものであるかを強調し、それにひきかえ妻の運命は大したものではない、と主張したのだ。・・・自分ではいつも平気で彼女のテキストを小説のなかで使っておきながら、スコットはゼルダが書いた小説を許すことができなかった。医師に宛てた手紙のなかで、彼はこれまで自分に向けられていた攻撃の矛先をゼルダに向けなおしている。自分ではなく、ゼルダこそが吸血鬼だ、というのである。<ゼルダはぼくの脳や胃や、神経や腰からちぎり取った体の一部で少しずついかがわしいキャリアを作り上げていったのです>と彼は苦々しく嘆いてみせるのだった」。
スコットの『偉大なるギャツビー』の熱烈なファンである私は、スコットのこのような常軌を逸した裏面は知りたくなかった、というのが正直な心境です。