榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

道修町のこと、高峰譲吉のこと、鈴木梅太郎のこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1916)】

【amazon 『三共茶ばなし』 カスタマーレビュー 2020年7月13日】 情熱的読書人間のないしょ話(1916)

ネムノキ、オニユリ、さまざまな色合いのサルスベリ、ヒマワリが花を咲かせています。ゴーヤーが花と実を付けています。

閑話休題、昭和27(1952)年に刊行された随筆集『三共茶ばなし――正佐久随筆』(山科樵作著、三共)には、長らく医薬品業界で働いてきた私にとって、興味深いことが書かれています。

「道修町」には、こういう一節があります。「結界格子の店構えが、洋風のオフィス式となり、それに東京の薬屋が支店を出して割りこみだしたので、(大阪の)道修町風景異変となつたが、東京の本町とは異り、依然として大阪生粋の薬屋で道修町は牛耳つている。所謂御三家などもそれで、武田薬工は近江屋長兵衛商店から、塩野義製薬は塩野屋吉兵衛商店の分店から、田辺製薬は田辺屋五兵衛商店から、それぞれ引取屋の発展で、何れも約二百年の暖簾である。江戸は士魂、浪華は商魂、と云うが、士魂も商魂も帰する所は一つである。吾人は過去現在を検討して、将来を思い、暖簾のさびを忘れてはならない」。

三共株式会社の初代社長を務めた高峰譲吉については、こう記されています。「(渡米した高峰)博士は当時高峰フェルメント会社と云う機関を設けて、高峰(元麹改良)法を実施する会社から報酬をうけていたのであるが、工場の再開も停頓したので収入は止まつた。それに大病で費用はかさみ高峰家の台所はゆるぎ始めた。(キャロライン)夫人は陶器の上絵書きを内職して家計を支えた。実に博士の全生涯を通じての苦難期であつた。博士は少しもこれに屈することなく、渡米の目的を達せずしておめおめ帰朝できるかと、病後をも顧みず研究をつづけた。・・・米国パークデビス会社は、博士に懇請してタカヂアスターゼの発売を開始した。このとき博士は、日本だけは日本人に売らせたいと云う愛国的心情から、パークデビス社に対し日本におけるそれを保留した。これが偶々(三共商店創業者)塩原又策氏に試売させることとなり、三共から売出された。タカヂアスターゼの発見は、一面にまた博士畢生の厄難を克服消化した。時に博士は四十一歳の働きざかりで、この発見により、博士の生活も漸次安定すると共に、博士の名声も世界的となり、ひいては、科学的社会的に躍動貢献の舞台にすべり出したので、博士の大成期はこれからであつた。・・・(四十六歳の時、二十三歳の弟子・上中啓三との)アドレナリンの発見は、臓器ホルモンの第一号で、これが内分泌学の基礎となり、ホルモン化学の誕生となつて、今日ホルモン製品の盛況をみるに至つたのである。他面に当時、アドレナリンなくして医学なしというスローガンがでたが、正に治療界に一新紀元を画したものであつた」。

「かようにしてアドレナリンの発見は、世界各国の治療界に驚異的驚動を与えたが、中でも欧州の学界は、博士から親しくその報告講演を聴取したき旨を頻りに懇請してきた。で、博士は夫人並びに夫人の令妹を同伴して渡欧し、各地で講演を行い絶讃を博した。その傍ら博士は欧州各地の化学工場を視察し、ハンブルグ号に乗船して印度洋経由で神戸港についた。時は明治三十五年桜さく陽春の頃で、十数年振りに故国の土をふみ、名実共に錦衣帰朝であつた。・・・博士を神戸埠頭に出迎えた塩原又策氏に伴われ・・・この帰朝によつて高峰、塩原両氏の交情は一層の親密を加え、三共との関係も確立した。タカヂアスターゼも、初め輸入販売であつたが、博士の諒解により、三共株式会社になつてから国産製品となつた。この帰朝により、アドレナリンも三共から発売され、これまた後に国産製品となつた」。

三共と関係の深い鈴木梅太郎については、こう綴られています。「オリザニンービタミンBは、一九一〇年、即ち明治四十三年の冬、日本の学者、鈴木梅太郎の研究によつて、米糠から発見発表された。博士は米の学名に因んで、これにオリザニンと命名した。ところが、それから一年ばかり遅れて、英国リスター研究所のフアンク博士が、同様の有効成分を得て、生活に必要なアミン族という意味で、これにビタミンと命名して発表した。こんな次第で、鈴木博士の方が一足さきであつたが、残念なことには、その発表が日本文であつて、欧米人の目にふれず、漸く一九一二年の夏、独乙生化学雑誌に掲載されて、やつと欧米に顔を出したので、ビタミンBの発見はフアンク博士が先陣の形に誤解された。が、其後この真相が内外に確認されて、今では、押しもおされぬビタミンBの世界最初の発見者は、鈴木博士であると太鼓判がおされ、内外の文献もこれを明記している」。

「博士は、オリザニン発見の翌年に、製法特許を得たので、時の三共の塩原社長の乞いに応じて同社に製造発売を許し、明治四十五年から、オリザニン液が、脚気新薬として発売された。ところが、一向に売れない。折角三共に売らしたものの、これでは三共に気の毒だと博士が歎息されたほどであつた。それもその筈で、当時医界における脚気の学説は、伝染病とか、白米中毒症とか、種々の議論があつて、糠が脚気にきくなどと云つても一笑に附された。それに相当の医者仲間でも、百姓学者が作つた薬が人間にきくとはとんでもないことだ、糠からとつた薬が脚気にきくなら、小便をのんでもきく、とか云つたように、嘲笑的罵評さえとばした。が、博士は信念をかえず、この研究をつゞけた。一方に、大正七年頃から、脚気原因に対する学界の研究も旺盛となつて、京大の島薗教授、慶大の大森教授などの研究が、終に脚気病原の本態をつくと共に、オリザニンの実効を証したので、内外の医界もこれを認識し、オリザニンも漸次使用されて普及され、ひいてこれによつて脚気衝心で倒れるものが激減するに至つた。これ偏えに悪罵と苦境を凌いだ博士と製造者三共との功績と云つても差支あるまい」。

このような著書を残してくれた、製薬企業・三共(現・第一三共)における大々先輩である山科樵作に感謝。