榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

私の尊敬するリンカンが、黒人奴隷解放に積極的ではなかったとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1931)】

【amazon 『アメリカ黒人の歴史(新版)』 カスタマーレビュー 2020年7月28日】 情熱的読書人間のないしょ話(1931)

ホウセンカ(朱色、桃色)、メマツヨイグサ(黄色)、チェリーセージ(サルビア・グレッギー。赤色)、ハナトラノオ(カクトラノオ。白色)、ヘクソカズラ(紫色+白色)、オミナエシ(黄色(、ワレモコウ(紫色)が花を咲かせています。ヤマモミジが実を付けています。2つの実がくっついていて、飛ぶときは1つずつに分かれ、風で遠くへ運ばれていきます。

閑話休題、『アメリカ黒人の歴史(新版)』(本田創造著、岩波新書)を読んで、エイブラハム・リンカンに対する尊敬の念が薄らいでしまいました。

「(アメリカの)南部11州と北部23州とのあいだに、4年にわたる南北戦争開始の幕が切って落されたのである。この時期に、この戦争の本質が奴隷解放戦争であり、1世紀近くまえの独立革命がなすべくしてなし残した歴史的課題を、今こそこの国が清掃すべき第2の革命戦争であると言いきることのできた人は、そう多くなかった。1961年3月4日のリンカンの大統領就任演説は、事態に対処する共和党政府の立場を広く世界に表明するものとして内外の注視と期待のもとに行なわれたが、そこにはなんらの『革命』も認められなかった。この演説で、リンカンは、『現に奴隷制度が存在する諸州の奴隷制度には直接にも間接にも干渉する意図がない』ことを改めて強調し、自分がなすべき議題としては『憲法それじたいが、明らかに私に課しているように、統一連邦の諸法律がすべての州で忠実に実行されるようできるだけ努力する』ことを法律論的見地から約束した。しかも、そのさい『流血や暴力はなんら必要でない』ばかりか、『逃亡奴隷は国家の権威によって引き渡されるのか、州の権威によるのか、憲法は明確にしていない』と述べて、奴隷財産の擁護論まで展開したのである。ここには高南部のいわゆる境界諸州の動向にたいする政治的配慮が含まれているが、それにしてもこの戦争におけるリンカンの最高目的が、奴隷解放にではなく連邦の統一維持にあったことが示されている」。何ということでしょう、リンカンにとっては、奴隷解放よりも連邦維持が重要だったというのです。

「このようなリンカンの立場は、事態が奴隷解放の布告を余儀なくさせ、彼自身もそのことを真剣に考えざるをえなくなったときになっても依然として変ることはなかった。1862年8月22日、リンカンは『ニューヨーク・トリビューン』の主幹で熱心な奴隷制反対論者の共和党員だったホーレス・グリーリが出していた公開状に回答を送ったが、その中で、彼はこの点にかんして、もっとはっきりと次のように述べた。『この戦いにおける私の最高目的は連邦を救うことであって、奴隷制度を救うことでもなければ、それを破壊することでもない。もしも、私が、一人の奴隷も解放しなくても連邦を救えるものなら、私はそうするだろう。また、もしも、私が、すべての奴隷を解放することによって連邦を救えるものなら、私はそうもするだろう。そして、もしも、私が、一部の奴隷を解放し他のものをそのままにしておくことによって連邦を救えるものなら。私はそうもするだろう』」。

「だが、黒人たちは、そうは考えなかった。奴隷制度の鉄鎖につながれていた南部の奴隷たちは、もしこの戦争で北軍が勝てば自分たちにも必ずや自由がもたらされ、反対にもし南軍が勝てば自分たちはひきつづいて奴隷身分におしとどめられるだろうということを、からだで感じとっていた」。曖昧な態度に終始するリンカンに比較して、当然のことながら、奴隷たちは何倍も真剣に解放を願っていたのです。

「奴隷解放のことが日程にのぼらざるを得なくなったときにも、リンカンは、できることなら奴隷は漸進的に解放し、その所有者には補償金を支払い、なおかつ解放された黒人はアフリカかどこかに植民させるのがよいと考えていた。だが、黒人の側からの強い反対と国会における共和党急進派の活躍が、このようなリンカンの考えを粉砕した」。

「やがてリンカンは、アンティータムの戦闘で北軍の軍事情勢が好転の兆しをみせ始めた機会をつかむと、1862年9月22日、ついに戦争遂行上の『適当かつ必要な軍事的措置』として、奴隷解放予備宣言を公布することに踏み切った。それは、反乱諸州が翌年の1月1日までに連邦に復帰しないならば、これら『合衆国にたいし反乱の状態にある州あるいは州の指定地域内に奴隷として所有されているすべての人びとは、この日、それより以後、そして永遠に自由を与えられる』ことを、国の内外に表明したものだった。そこには、2つの点で大きな懸念と制約があった。・・・この段階においても、リンカン政府が奴隷の即時、無条件、全面解放をためらっていたあらわれだった。それにもかかわらず、黒人たちは、1月1日をひたすら待ちのぞんだ」。

「輝かしい朝、偉大なる朝、1863年1月1日の朝! こうして予備宣言は、今や最終的なかたちの奴隷解放令として、400万人にのぼる黒人奴隷の自由を国の内外に高らかに宣したのである。のちに、彼自身が述べているように、リンカンは、『自分が事態を支配するのではなく、事態が自分を支配する』ことに忠実であったことによって、アメリカの最も偉大な大統領の一人になった。しかし、じっさいにこの国の黒人奴隷が自由を勝ち取るためには、これからあと2年もつづく血みどろな戦争に耐えぬき、その間における黒人をはじめとする全民主勢力のたゆまない闘いによって、1865年に憲法修正第13条が制定されるまでの困難な時間を必要としたのである」。

「奴隷解放令が北部にとって最大の政治的武器となったように、この戦争で黒人の果した役割は目覚しかった。それは、北部の軍事的勝利を最終的なものにみちびいた原動力の中でも、きわだって重要なもののひとつだった。・・・なんといっても、黒人の役割が最も鮮やかに発揮されたのは、直接的な戦いの場である戦場においてであった。かれらは、殆どの白人たちと異なり、この戦争を決して『白人の戦争』とは考えていなかったからである」。

小学生の時に、「新・講談社の絵本」シリーズの『リンカーン』で、リンカンが苦学力行の末、奴隷解放を実現したことを知って以来、リンカンは私にとって一番尊敬できる人であっただけに、彼が奴隷解放に積極的でなかったとは、複雑な気持ちです。しかし、黒人奴隷たちが南北戦争における北軍勝利に貢献したことを知り、嬉しくなりました。