榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

一兵卒が戦地で経験したこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1948)】

【amazon 『私も戦争に行った』 カスタマーレビュー 2020年8月14日】 情熱的読書人間のないしょ話(1948)

クロバネツリアブの交尾を目撃することができました。アカボシゴマダラ、ハナダテ(ヤブダテ)(写真6、7)、ヤブラン(写真8)の蕾をカメラに収めました。クサギカメムシの幼虫も我が家の庭を訪れる常連です。庭師(女房)が殺虫剤も除草剤も使わないので、昆虫天国になっているのです。

閑話休題、『私も戦争に行った』(山内久著、岩波ジュニア新書)を読んで、3つのことに衝撃を受けました。

著者は、日本の敗北寸前の昭和19(1944)年の秋、19歳で兵隊にとられ、中国山西省で地獄のような兵隊生活を体験します。「ともかく殴るのである。殴って殴って殴りまくって、恐怖以外の感情を若い敏感な肉体から叩き出し、その後の空白に、彼等好みの規律とか、大和魂とか、絶対服従の皇軍精神を叩き込もうというのか、まあ殴る」。

第1は、新兵訓練で中国人を銃剣で突き殺した経験が語られていることです。

「三本の木の十字架が立っている。・・・左手の崖道から、四人の中国人が、古年兵の怒声に追われて上がって来る。・・・一人はすでに顎鬚が真っ白になっている老人で、後ろ手に縛られたまま大地に坐らされた。右の柱に縛りつけられているまだ二十代と思われる若い男は歯の根が合わず、顎が外れるのではないかと思われるほどガタガタして、これは縛りつけられても止まらなかった。中央の柱に縛られた男についてはよく覚えていない。中年で、立派な顔をしていたような気がするが、それがどういう顔だったか記憶がない。自分の親に近い年齢なので目をそむけていたのだろう。左の柱の男、われわれが突かなければならない男についてはよく覚えている。丸刈りの、おだやかな、いかにも農民らしい三十七、八の男だった。手足を縛られる間、男は足もとばかり見ていた。作業はほとんど無言で、敏速に進む。・・・私の胸は、先刻から早鐘のように打っている。それが更に、更に速くなった。こんなことをしていいいのだろうか。初年兵の訓練の総仕上げに人を突き殺したりしていいのだろうか、いいはずはない。許されるはずはない。しかしこの試練を拒否すれば国家から罰される。・・・教育隊長のS少尉が軍刀の鞘を払った。当番兵が持ってきた飯盒の水を刃にかけて、老人の背後に立ち、振りかぶった。・・・振り下ろしたが、首は一刀では落ちなかった。・・・二の太刀、三の太刀で落ちた。頸動脈から血がトクトクと流れ出た。・・・老人は終始無表情だったが、切り落とされた首も無表情だった。さあ今度はお前たちの番だ。・・・山岸に突かれた中国人は、最初の一撃が入った時、ゆっくりと下を向いた。・・・第二撃が入り、ガクッと揺れてからうなだれた。目匿しはしていなかった。なぜさせなかったかはわからないが、最初からしていなかった。山岸に引きずられるように、四、五名が飛び出したが、あとが続かなかった。・・・結局私は十六番目に突いた。(順番の)後ろに回り込んでも、もっと巧みに回り込んでくる人間がいたのだ。はだけられた農民の胸板にクサビ型の黒い穴が五、六ヵ所あったのを思い出す。その下の腹の部分はすでにズタズタで、手打うどんの大笊からうどんをぶち撒けたように、真っ白な大腸が全部とび出していた」。

「驚いたのは、屍体処理の粗雑さだった。・・・この四日間の体験はかなりこたえた。元気で働いていた農民がある日つかまってズタズタにされ、捨てられ、裸にされ、獣の餌にされ、糞にされてしまう。そういうことがあるということ、しかも、そのことに自分が捲き込まれる場合も、現にあり得るのだという認識は、元気盛りの十九歳にとってもかなりこたえるし、無常感を与える。だが私にとってもっと恐ろしかったのは、もしかしたら日本は敗けるのではないかという予感だった。われわれの『第一期教育終了』の正式期日は三月十日である。いわゆる『東京大空襲』の日だ。そのニュースは数日後には全隊にひろまった。八路軍の宣伝隊がどこかの県城に現れて、『帰国しても、もうあなた方の父母兄妹はいません。八路軍と協力して世界の平和のために働きましょう』と呼びかけてきたという噂も伝わってきた」。

第2は、米軍によって広島に原爆が落とされたことを、その直後に戦地の兵隊たちが知っていたことです。

「八月六日が来た。だが、この日広島で何が起こっていたか、私たちは何も知らなかった。ただ教育隊長のO軍曹がこの晩、大酒を飲んで大暴れしたという噂を聞いただけだった。そのO軍曹が、翌々日の授業の始まる前に、お前たちに伝えておきたいことがあると前置きして一片の紙片を読みだした。『八月六日午前、広島市は、敵単機、少時間の滞空によって、相当の被害を被った。この攻撃に於て、敵は新兵器を使用した模様である』。読み終った軍曹はニヤリと微笑して、『相当の被害というのはメチャクチャにやられたということだ。新兵器というのはつまり原子爆弾だな。一発でパリもロンドンも吹っ飛ぶという超兵器だ。これを持った方が勝ちだからドイツも日本も死物狂いで造ろうとしたわけだが、アメリカに負けたな。これで日本勝利の確率は零パーセントだ。どうするか、コラ、みんな枕かかえて昼寝でもするか』。誰一人口をきかなかったし、身じろぎもしなかった」。

第3は、一般の人々も戦争を待ち望んでいたという事実です。

「大体、国民を軍部支持、戦争賛成へ引っぱって行った最大の功労者は新聞ですからね。・・・それと、もう一つは貧困ですね」。それに軍国教育の影響が大きかったにしろ、人々が戦争を支持したという事実には、大いに考えさせられます。

「われわれの弱点というか、ヤバいところは恰好の良し悪しにばかりこだわって、物事を徹底的に追究しないことですね。第一次世界大戦での日本の役は火事場泥棒だったけれど、第二次世界大戦では自分で主役を買って出たわけでしょう。だが幕があいてからは、柄にもない大見得切り続けて、とうとう三百十万人もの国民を殺してしまった。千万とも二千万ともいうけれども実際には数え切れぬほどのアジア同胞を殺してしまった。そんな戦争をなぜ日本はしたのか。結果何を失い、何を得たのか。今それをキチンと押え直さなかったら、また戦前に逆戻りですよね」。

私事に亘るが、兵隊経験のある父と、父の出征中に中国・上海から、生後間もない私を抱いて命からがら引き揚げてきた母が、戦後、一貫して社会党に票を投じ続けたのは、息子(私)を絶対に戦場に送りたくないという一念からだったことに思いを馳せると、感慨深いものがあります。