応仁の乱後、足利将軍は権力を喪失したという定説への反論・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1958)】
今日は、秋が忍び寄っていることを感じさせる風が吹いています。藤原敏行の歌、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」が想起されます。翅端までが60mmほどの大きなツユムシ、サトクダマキモドキ(クダマキモドキ)の雌に出くわしました。ミンミンゼミの雄、ウチワヤンマ、ショウジョウトンボの雄、シオカラトンボの雄をカメラに収めました。
閑話休題、『戦国期足利将軍研究の最前線』(日本史史料研究会監修、山田康弘編、山川出版社)は、応仁の乱以降、足利将軍は権力を喪失し、有力大名の傀儡に成り果ててしまったという定説に、異議を唱えています。近年の研究結果から、足利将軍は戦国時代においても決して傀儡ではなかったということが明らかになってきているというのです。
その論拠として、応仁の乱後に将軍として活躍した足利義尚(9代将軍)と足利義稙(10代将軍)の事例を取り上げています。この2人が、多くの大名たちを率いて近江国(滋賀県)への遠征を敢行し、成果を上げたことから、応仁の乱後すぐに将軍家は没落してしまったという定説は間違っていると主張しています。さらに、裁判制度の面から見ても、足利将軍が重きをなしていたことを傍証として挙げています。
「将軍義尚の近江遠征には、多くの大名たちが参陣した。・・・当時、一国以上の所領を持っていた大名は、全部で27家あった(将軍直属ではない、関東・東北や九州の大名は除く)。そのうち、じつに21家の大名たちが義尚の命令を受け、近江に参陣していたというのだ。これほど多くの大名たちが義尚のもとに参陣していた、ということは、応仁の乱後も、将軍家には依然として大名たちに対する影響力があった、ということを示している」。
「では、なぜ大名たちは参陣したのだろうか。この義尚の近江遠征は、将軍直臣・公家・寺社たちの所領を六角氏から取り戻すことを本来の目的としていた。したがって、大名たちにとっては参陣しても直接利益になるものではなかった。そうしたことから、これまでの研究では、大名たちは義尚の近江遠征に対して熱意を持てず、とりわけ畿内最強の勢威を持つ有力大名・細川氏にいたっては、近江遠征を妨害しようとしていた、と考えられてきた。しかし、大名たちは必ずしも近江遠征に不熱心だったわけではない。たとえば、義尚から参陣を命じられていなくても、大名自ら『参陣することを許可してほしい』と自発的・積極的に州軍側へ働きかけるケースさえあった。また細川氏にしても、けっして義尚の遠征を妨害したわけではなかった。たしかに細川氏重臣の一部は参陣に反対したが、細川氏の当主・細川政元はこれを義尚に謝罪し、自ら近江に参陣しているのである。・・・(このように)大名たちが義尚の近江遠征に参陣したのは、それによって何かメリットを得られると判断したためであった。すなわち、参陣することで義尚に忠誠心を示し、その信任を得ることで義尚をうまく利用しようと考えていたのだ。言い換えれば、大名たちにとって足利将軍家は、応仁の乱後も『利用価値のある存在』『大きな影響力を持った存在』だと認識されていたわけである」。義稙の近江遠征についても、同様のことが言えるというのです。
こう結論されています。「(応仁の)乱後に将軍となった9代将軍の義尚、10代将軍の義稙は、近江遠征を敢行した。そして、それには多くの大名たちが参加し、将軍の指揮下で戦った。この事実を考えたならば、応仁の乱によってただちに将軍家が没落したとはいえないだろう。将軍家は応仁の乱後、結果的には弱体化していったのだが、それは徐々に進行していったのであり。乱直後にはまだそれなりの勢威を保っていた、というべきだろう」。
編者が宣言しているとおり、本書は、専門家ではなく初学者向けの、さまざまな工夫が凝らされています。