榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

轡田隆史を見倣い、私も「100歳まで読書」を目標にすることに決めました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1989)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年9月24日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1989)

緑が望める書店は、心が落ち着きますね。

閑話休題、『100歳まで読書――「死ぬまで本を読む」知的生活のヒント』(轡田隆史著、三笠書房)は、83歳の著者による読書の勧めです。

「時と場所を選ばず、いつだって望むときに質問することのできる『相手』こそ書物であることも知った。だから、『死ぬまで本を読む』というのは『死ぬまで質問しつづける』というに等しいのである。それこそ無数にある質問のなかで最も普遍的で、最も難しい質問はなんだろう? それは人それぞれだろうが、ぼくの場合は『なぜぼくはこの世に生まれてきたのだろうか?』『死とはなんだろう? 死ぬとどうなるのだろう?』といったあたりだ。どちらも『答え』の出にくい質問だ。ことに『死』については、死んでもわからないのである。・・・動物で書物を読むのは人間だけである。本を読む行為によって、自分がれっきとした人間であることを証明するのだ。だから、本を読むのである』。全面的に賛成です。

「感動こそ、精神の若返りの最高の秘訣なのだ。だからこそ、死ぬまで本を読むのである」。私も、同じ心意気で、毎日、本を読み続けています。

「『書評』を読むのだって立派な読書だ」には、こういう一節があります。「書評を読むのも立派な読書のうちですよ、と丸谷(才一)さんは、いまとなってはなつかしさ限りない大きな声で断言するのだった。日曜日の毎日新聞の『今週の本棚』はぼくの必読のページなのである。もしも毎日を購読していなくても、日曜日だけは駅に買いに行こう、とまでおすすめしている。書物を手にする筋力を失っても、毎日新聞の『今週の本棚』のページなら、それこそ死ぬまで読んでいられるぞ!」。現在は、「今週の本棚」は土曜日に掲載されているが、この書評欄は本当に充実しています。

「平成31(2019)年2月17日付毎日新聞の『今週の本棚』で、高野公彦『明月記を読む 定家の歌とともに』という本を、歌人の小島ゆかりさんが紹介していた。・・・日記は、歌や宮中の行事、人事などとても広い範囲にわたっていて、史料的な価値が高い。なかなか出世できない『職業歌人』としての悩みなども記されていて面白い。・・・評者の小島さんは、高野さんのこの著作について、人間、定家を読み、歌人、定家を読む名著である、と高く評価している」。私も、「今週の本棚」で『明月記を読む』の存在を知り、早速、読み、「本書のおかげで、藤原定家の冷然とした和歌の大家というイメージが崩れ、貴族社会の中間管理職として苦悩する定家に親しみが湧いてきた」という書評を書きました。

「書店に入るだけで、たくさん『何か』を読んでいる。・・・書店に入って『知』のシャワーをあびよう」。書店と図書館は、私の心のオアシスです。

井伏鱒二の『山椒魚』に関して、興味深いことが書かれています。「ところが昭和60(1985)年に、『事件』が起きた。新潮社版の『井伏鱒二自選全集』第一巻に収録したとき井伏鱒二は、この最後の部分を削除したのだ。昭和4(1929)年に完成作が発表されてから60年近くも経っているのに、それはないですよ! そうファンは困惑したけれど、これも『井伏流』の『推敲』と理解するしかなかった。だから、『山椒魚』は、<けれど彼等は、今年の夏はお互に黙り込んで、そしてお互に自分の歎息が相手に聞えないやうに注意してゐたのである>というところでブツリと終わるのである」。

気難しい永井荷風が森鴎外に心酔していたことが記されています。「フランス文学者、河盛好蔵の『本とつきあう方法』というエッセイにこう書かれていたのである。<永井荷風の死の枕もとには、多年愛読した鴎外の『渋江抽斎』の頁が開かれたままであったという。私もそんな枕頭の書をなんとかして早く見つけたい>。・・・荷風は、あれほど同時代の文学者たちを嫌悪していながら、森鴎外については終生、尊敬の念を抱き、師と仰いでいたのである。『渋江抽斎』を手本にした作品もあるほどなのだ。ところで『渋江抽斎』という作品は、ぼくも何度か読んできたけれど、文句なく面白い」。ここまで言われても、私には、苦労して読み終えた『渋江抽斎』を再読する気力はありません(笑)。

書評における「引用」についての著者の見解には、我が意を得たりと深く頷いてしまいました。「いまお読みいただいているこの本にも引用がしきりにあるけれど、それはことごとく、ぼくが知らなかったことだから『なるほど』と感じ入って引用しているのである。『引用』は無知の告白であるのと同時に、知らなかったことを知った証拠でもある。喜びの表明でもある。なぜならば、『知らない』ことを自覚した瞬間とは、それまで知らなかったことを知った瞬間でもあるわけだから」。

「ぼくにとっても、山中の清流のほとりの質素な小屋に、独り座して読書に思索にふけるのは、理想の世界である。・・・そして時に、志を同じくする友人が酒を携えてたずねてくる。悠々と酌み交わし、語り合い、ふと気がつけば眠ってしまって、友はすでに去っている。<両人対酌すれば山花開く 一盃一盃また一盃 我酔いて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去れ 明朝意あらば琴を抱いて来たれ>という唐の酔っぱらい大詩人・李白の詩『山中対酌』の境地こそ、『100歳まで読書』の理想世界ではなかろうか」。そのとおりだと、思わず膝を打ってしまいました。

「アルゼンチンの作家A・マングェル著『読書の歴史 あるいは読者の歴史』には数多くの『読む人』の絵画や写真が載っている。・・・『読書する奴隷を写した珍しい写真。サウスカロライナ州で1856年頃撮影されたもの』と説明がついた一枚は、粗末な丸太小屋の前で黒人の女性が立って本を読んでいる姿だ。そのころアメリカのサウスカロライナ地方では、奴隷には文字の読み書きを教えることを禁じていた。本を読むようになれば、自由を求めるようになるからだ。南部では、仲間に綴りを教えようとした奴隷が農園主によって縛り首にされた。ごく一般的な行為だったという」。私も、『読書の歴史 あるいは読者の歴史』から強い刺激を受け、「カフカが寓話的な小説を、紫式部が『源氏物語』を書いた真の理由」というタイトルの書評を書いているが、その中で、アメリカ南部で文字を学ぶことを禁じられた黒人奴隷の事例にも言及しています。

「読んだ本の内容をこんなふうに要約できたらすばらしい」。「要約」することの重要性が強調されています。

マンガ『古本屋台』が、著者の「妄想的」蔵書処分法の手本として登場しています。私も、コミックスなのにエッセイのような不思議な本『古本屋台』について、「珍しい古本をぎっしりと積んだ、神出鬼没の古本屋台の物語」というタイトルの書評を書いています。

9歳年上の轡田隆史と私の読書の好みがかなり似通っていることが分かり、嬉しくなってしまいました。