ひとりものの部屋は棺桶に似ている・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2036)】
初めてトラツグミ(写真2)に出くわしました(不鮮明な写真しか撮れず、残念無念!)。カイツブリ(写真3)、ヒドリガモの雄(写真4)、ハシビロガモの雄(写真5)、雌(写真6)、マガモの雄(写真7)、カルガモ(写真8)、オナガガモの雄(写真9)、オオバン(写真10)、カワウ(写真11)、コサギ(写真12、13)、ダイサギ(写真14、15)、アオサギ(写真16)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は11,323でした。
閑話休題、エッセイ集『歩くひとりもの』(津野海太郎著、ちくま文庫)では、ひとりものの考え方、行動が率直に語られています。
「ひとりものの部屋はなにに似ているか? 棺桶に似ていると私は思う。以前、ひとりで複数の部屋を管理するのが面倒になって、十五畳ほどのコンクリートの部屋を一つだけ借りて住んでいたことがある。机が二つと本棚が四つ。粗末な木のベッド。調理道具は土鍋と中華鍋の二つだけ。食器も二人分ずつ残して、あとのものはすべて処分した。・・・自分以外にはだれもいないからっぽの部屋で、ひとりで勝手に死んだふりをする技術――。それを仮に『死体術』と呼ぶとすれば、私とかぎらず、たぶん中年以上のひとりものの多くが、いやおうなしに、それぞれのしかたでの死体術を身につけているはずである。それを、ものや人との関係を自分で処理しうるだけの量に限定しつづける技術と定義してもいい。あるいは、とくにさびしがったりわびしがったりすることなく、ひとりで暮らしていくための心的な技術ということもできるだろう」。「棺桶に似ている」とは、いかにも津野海太郎らしい表現です。
「私は主義ではなく習慣によるひとりものである。習慣によるひとりものには利点が一つある。ひとりで生きるのがあまりこわくないということだ。このことは老いの自覚と結びついている。これまでやむなく身につけてきた日常の習慣(家事をこなしたり、いくばくかのさびしさを我慢したりする技術)を、まもなくやってくる本格的な老いに向けて再編成していく。私にとって、たぶんそれはさしてむずかしいことではないだろう。いくら結婚していても死ぬときはひとり。理想的と見えたカップルが最後の最後につまずく場合だってある。だから最初からひとりで生きるほうが正しい、というのではない。ひとりで生きざるをえなくなることに脅えながら生きるのがいやだとしたら、まえもってなんらかの手立てを考えておかねばならない。そこのところを、ほんの少々、ひとりものは先取りして生きているのかもしれないという程度のこと――。しかし本当にそうなのだろうか? ひとりで生きるのがこわくない、と本当にきみはそういいきれるのか。うーん」。津野さん、あなたのこの考え方は偏り過ぎている、言い訳めいていると言わざるを得ません。
ブレヒトと女たちを論じた佐伯隆幸との対話は、刺激的です。
●佐伯=谷川道子さんの『聖母と娼婦を超えて――ブレヒトと女たちの共生』――この本は非常に興味深かった。ブレヒトに女性が大勢いたということは知ってたけど、具体的なことはなにも知らなかったんでね。とくに三人の秘書たちとの関係がすごい。
●津野=エリザベート・ハウプトマン、マルガレーテ・シュテフィン、ルート・ベルラウ――われわれはおもにブレヒトの戯曲の共作者として彼女たちの名前を知ってたわけだけど、三人ともにかれの有能な秘書兼愛人というか、そうとうに味の濃い関係だったらしい。
●佐伯=ほとんど自己抹殺に近いぐらいのかたちでブレヒトに献身的に協力するわけでしょ。
●津野=それだけの性的吸引力があったんじゃないの。性的というよりエロス的といったほうがいいのかもしれないけど・・・。
●佐伯=ブレヒトは複数の女性と同時に、おまけに持続的にだからさ。
●津野=それなりに関係をかくそうと努力するんだけど、結局、女好きなんだな。しかも若い女が好きで、すぐ目うつりしちゃう。死ぬまでそれをやってたわけだろ。
この件(くだり)を読んでいたら、無性に『聖母と娼婦を超えて』を読みたくなってしまいました。