真の読書とは、「胸中の温気」で書物の氷を溶かすことだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2046)】
ハゼ(写真2)、ドウダンツツジ(写真3)、ホウキギ(ホウキグサ、コキア。写真4)、ツタ(写真5~8)が紅葉し、イチョウ(写真9)が黄葉しています。ツワブキ(写真10~13)でヤマトシジミの雌が吸蜜しています。石川啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」という短歌に思いを馳せながら、ミニシクラメン(写真14)を求めました。
閑話休題、エッセイ集『青春と女性』(中村光夫著、第三文明社)に収められている「読書についてⅠ」、「読書についてⅡ」、「読書についてⅢ」に、強く頷いてしまいました。
「真の意味での教養とは、実生活を離れた知識の羅列ではなく、むしろ各自がその生活に堪えて行く勇気の源泉なのである。・・・僕等が生きることの意味を識るのは主として書籍によってである。そこに蓄えられた先人の声を明確に、生き生きと聞き得れば聞き得るほど、僕等は自分の些やかな人生を正しく明瞭に理解するのである。もしそうでなければ、あらゆる思想は僕等にとって無意味なはずである」。
「他の優れた人々の言葉を素直に受け入れ、同時にそれに対する自分の疑問を正直に、誰憚るところなく育てて行くこと、おそらくここに僕等が読書を本当に自分の身の養いにして行く要諦が存するのである。こうした態度で書籍に接することによってのみ、僕等はその内容を自己の生活に即して理解することもでき、同時に自己の狭隘な生活経験の垣を破って広い精神の世界に心を成長させて行けるのである。すなわち読書を真の教養として身につけることは、精神の世界で他の優れた人々の言葉に耳を傾け、そこに自分以外の生き方考え方を率直に認めると同時に、この他人の映像が僕等の心に示唆するさまざまな生き方の可能性を僕等自身の問題としてしっかと育てて行くことである」。
「おそらく青年を動かす最大の情熱は好奇心であろう。彼が好奇心から恋愛し、また友達を造るように、書物を読むのは多くの場合その知的な好奇心を満たすためだと言ってよい。しかし多くの人々はこの青年期の生き生きした好奇心こそ、彼が人生で再び獲られぬ貴重な宝であり、彼の精神の孕む種々の可能性の自然な顕現の形であることに気付かない。そして現実の世界で彼の好奇心の結果がやがてはっきりした人生の絆と化し、彼が現実の世界にひとつの定まった座席を占めるようになるにつれ、その知的な好奇心も次第に衰えて行くのが普通である。つまり実際の人間を対象とした青年の情熱は良かれ悪しかれ彼を或る現実の生活に導いて行くに反し、自然のままに放任された知的好奇心は多くの場合虚しい時間の浪費に終わって、その持主の生活に何等の痕跡を止めない」。
「僕等は何のために書物を読むのであろうか。それは一般に教養を積むためと言ってよいであろう。・・・真の意味での教養とは、人間がその名に価する存在になるための本質的な条件なのであり、世間によく見られるような或る種の軽薄な趣味や衒学的な気取りではないのである。したがって話を芸術、哲学、宗教の書物に限って言えば、何を読むべきかということは、結局僕等が真の教養を得るにはいかにすべきかという問題に帰着する。・・・現代に生きる僕等に正しい意味の教養は、どうしたら得られるかと言えば、それは具体的に言ってまず古典を読むことである。僕等の実生活においても本当の友人は永年の親身な付き合いを経て初めて得られるように、書物の本当の価値を僕等に証してくれるのはただ歳月の力よりほかないのである。そしてちょうど僕等が旧い友人に対して感ずる愛情には、それとの交渉のうちに育って来た僕等の心の歴史が含まれているように、或る書物が永い年月の間保って来た生命には、それに次々に変わった形で、それぞれの感興を托して来た幾代かの人々の心がそのまま生きていると言ってよいのである」。
「『書物とはすべて人間の思想が凍ったものだ。そして、真の読書とは僕等がおのおの<胸中の温気>でこの氷を溶かしてみることだ』という意味のことを二宮尊徳が言っているが、おそらくこの比喩は正確である。僕等が書物を繙くのは、そのなかに生きる著者の精神に接することである。さらに一歩を進めて言えばその著者の精神に、時と所の隔てを離れて、自ら生きてみることである。もしそうでなければ読書がこれほど長い間、多くの人々によって最上の楽しみとされたはずはない。またそれが人間の修養の一手段として重視されて来たわけもない。そしてこの場合大切なのは尊徳の言葉を借りれば僕等の『胸中の温気』である。何故なら元来が死物である書物はただ僕等の心の熱情に触れたとき、生物として蘇るのであり、また書物が本当の意味で人間の生活に役立つのはただそれを僕等が生物として感ずるときだけであるからでる。・・・真の読書家とは例外なく書物を蘇らせるに足る『胸中の温気』を持ち、これに自分の心を通わす術を知った人である。そうしてこうした真面目なしかも積極的な精神の作業の対象となり得たとき、書物は初めてその真実の魅力を僕等に明かしてくれる。何故なら人間には真剣にできることだけが、結局一番面白いからである」。