榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

何と、王陽明はあくまでも朱子の正しい後継者と自らを位置づけていた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2062)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年12月6日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2062)

クリスマスが近づいてきましたね。

閑話休題、『朱子学と陽明学』(小島毅著、ちくま学芸文庫)には、陽明学に親近感を持つ私にとって驚くべきことが書かれています。

朱子学の祖・朱子(朱熹。1130~1200年)が生まれたのは南宋建国の4年目であり、陽明学の祖・王陽明(王守仁。1472~1528年)は朱熹没後270年、明建国のおよそ100年後に生まれています。

著者は、何と、王守仁はあくまでも朱熹の正しい後継者と自らを位置づけていたというのです。「往々にして陽明学は朱子学と相容れないかのようにみなされているが、歴史的事実としては、陽明学はあくまでも朱子学の展開形態である。朱子学がなければ出てこない発想であるし、そもそもの問題意識からして、当時流行していた朱子学主流派の弊害を是正するために、朱子学が構築した枠組みの中で異議申し立てをおこなったにすぎない。両者の見かけの相違は、朱熹と王守仁の個性の対照に由来する部分が大きく、そのため両者は力点の置き方を異にするが、思考の基盤は共有している」。

では、なぜ両者が分岐しなければならなかったのでしょうか。「それは朱熹・王守仁両人の出身環境の相違である。彼らの生きた時代は、科挙制度によって文化的な秩序が構築されていた。彼らはいずれも進士合格者であり、まごうかたなき士大夫であった。しかし、ここでも二人は対照的である。一方の朱熹は、下級地方官にしかなれなかった父を早くに亡くし、その友人たちの援助で勉学した。・・・兄弟もおらず、ほとんど天涯孤独といってよい状況である。福建山中で勉学、19歳での科挙合格は彼の俊才ぶりを示すが、あいにく席次は低く、ためにエリートコースからはずれてしまう。そのことを受け入れ、立身出世には意欲を持たない代わりに、ではどうしたら士大夫としての使命が果たせるかが、彼の思想的課題となる。その結論が、『修己治人』であった。彼をこの発想に導いたのは、二程に始まるいわゆる道学の流れである。・・・朱熹は生前においては(道学系の)傍系として著作活動を展開したのである。その精緻で分析的、しかも論争を好む態度は、主流派への対抗意識がなせる業であった」。

かたや王守仁の「父は状元、エリート中のエリートである。当然、父の交友範囲は士大夫文化の最高水準であった。守仁少年も父の勤務先である国都北京で思春期を過ごすことになる。政治・文化の中心に、彼は生まれながらにして座を占めていた。当時の主流思想は朱子学であったが、彼は一旦生真面目にそれを原理主義的に修得しようとして挫折する。その後は、自然体にむしろ当時流行していた諸潮流に染まりながら、青年時代を送った。彼も若くして進士となった(28歳)が、朱熹とは違って席次も上位であり、父が高官だったことも作用してエリートコースを歩んだ。それだけに貴州への左遷は、精神的に衝撃が大きかった。それまで当たり前のこととみなしていた世界とはまるで異なるものをここで体験する。このいわば異文化経験が、逆に人間の普遍性を確信させる。論争を好まず、相手の主張を正面から論駁することもなく、ともかく融和を説いていく姿勢は、毛並みの良さと相まって周囲から人望を集めるに充分であった。伝えられる逸話から察するに、社交的で話がうまかったと思われ、それゆえ彼の講席には士大夫ばかりか庶民もやってきて、会場に収容しきれないということになったのであろう。その講話の中身は、厳密な概念分析などではなく、わかりやすい日常卑近の人生哲学であった。陽明学が朱子学とは異質な学知のあり方になっていくのは、こうして見れば当然の成り行きである」。

「近現代における評価は、おおむね朱子学をおかみの御用学問、陽明学を民間・在野からの批判思想と捉えている。もちろん、明末という時期にそうした傾向を持たなかったわけではないが、それぞれの創始者の事績に即していえば、事態はむしろ逆である。この逆説は、朱熹が努力して主流派になろうとした傍流の人物であったのに対して、王守仁が生まれながらの文化貴族であり、自分が身体化している主流の思想文化をむしろ意図的に破壊しようとしていたというところから説明できよう。極端な言い方をすれば、初発の時点では、朱子学は成り上がりの見栄、陽明学は放蕩息子の道楽だったのである。したがって、陽明学の民衆的立場を強調する議論は再考の余地があろう。たしかに、そうなっていく側面が陽明学にはあった。それを近代へつながる(べくしてつながらなかった)未完の物語として取り上げ、陽明学の正統であるかのように位置づける流儀が、現在ではむしろ主流である。だが、それは陽明学をデフォルメしたものであり、その正確な理解を妨げる要因にすらなっていると思う。陽明学とは何かという問題を、もう一度王守仁やその門流の教説全体の中から再構成していく作業が求められている。事は朱子学についても同様である。それは『正しい朱子学』『正しい陽明学』を定式化するためにではなく、朱子学・陽明学を現代の文脈に活かすためにこそ必要である」。