明智光秀の「時は今天が下しる五月かな」の真相が明らかに・・・【山椒読書論(488)】
『連歌入門――ことばと心をつむぐ文芸』(廣木一人著、三弥井書店)は、これから連歌を嗜もうという人の入門書として、行き届いた心配りがなされている。
本書の最終章で、読者が百韻連歌というものを実際に味わえるようにと、「愛宕(あたご)百韻」の各句が紹介され、解説が付されている。「愛宕百韻」は、本能寺の変の9日前に、京都の愛宕山西之坊威徳院で催された連歌会である。この寺の院主・行祐が亭主、明智光秀が主客の立場で、当時の連歌界の第一人者であった紹巴が宗匠を務めている。他には、紹巴の門下で既に名の高かった連歌師、昌叱、心前、兼如が加わり、愛宕山の僧や、光秀の家臣も参加している。
発句は、世によく知られている、「時は今天が下しる五月かな 光秀」である。「句の内容は表面上は、今は正しくこの世は五月そのものである、ということである。『しる』は治めるの意で、字句どおりに言えば、天下を治めている五月である、この世界を五月という時節にした、ということであろう。『天』に『雨』が掛けられていることから、この世を雨にした五月である、という意が込められてもいる。この連歌は戦勝祈願であったので、その意も込められていなければ意味がない。『天が下しる五月」は天下を治めることになる五月、と読み取れそうであるということである。これで内容上もますます発句にふさわしくなる』。
「句の解釈はこれで済んだことになるが、このような作品を詠んだ事情ということになると、誰が天下を治めることになるのか、などの問題の考察に踏み込んでいかなければならなくなる。巷間では、本能寺の変と絡めて、光秀自身が天下を治めることになる、と読み取られることが多い。そうなると話としては面白くなる。『時』には光秀の氏であった『土岐』が掛けられているともされている。このような真意があったのかどうかは闇であるが、当時、織田信長は天下統一の最後の段階として中国地方の制覇の途上にあった。光秀の出陣も、最前線にいた羽柴(豊臣)秀吉援助のためで、信長が京都の本能寺に入ったのもそれに関わっていた。常識的にみて、天下を治めるのは信長、もしくはその陣営ということで、この発句は信長を寿いだものであったのであろう」。
「連歌師が武将と密接な関係を持ったことは確かだが、連歌師はでき得る限り政治的な偏りを持たないように心していたのが普通で、だからこそ、戦乱の中を比較的自由に動けたのである。武将の方もそれは十分に承知であった。どちらに付くか分からない多くの連歌師を前に光秀が危険な真意を吐露したとは考えにくい」。
これまで、私は、光秀がこの発句で信長への叛逆の覚悟を漏らしたということはあり得ると考えてきたが、この連歌会には自分の家臣のみならず、連歌師を初めとする外部の人間が大勢参加していた状況に鑑み、それはあり得ないなという判断に変わってしまった。連歌の世界を知り尽くしている著者の見解は、強い説得力を有している。
因みに、連歌会では、光秀の句に、「水上まさる庭の夏山 行祐」が続き、その後は、「花落つる池の流れを塞き止めて 紹巴」、「風に霞を吹き送る暮 宥源」、「春もなほ鐘の響きは冴えぬらん 昌叱」、「片敷く袖は有明の霜 心前」、「うら枯れになりぬる草の枕して 兼如」、「聞きなれにたる野辺の松虫 行澄」と続いていき、最後の百句目は「国々はなほのどかなる頃 光慶」となっている。この光慶は光秀の息子である。