はっきりしなかったレヴィ=ストロースが鮮明に見えてきた・・・【山椒読書論(136)】
これまで、構造人類学者、クロード・レヴィ=ストロースの半ば自伝的作品である『悲しき熱帯』(クロード・レヴィ=ストロース著、川田順造訳、中公クラシックス、Ⅰ・Ⅱ巻)や、レヴィ=ストロースに関する解説書をいろいろ読んでも、もう一つ、レヴィ=ストロースの全体像がはっきりせず、もどかしい思いに付きまとわれてきた。
それが、今回、『レヴィ=ストロース――まなざしの構造主義』(出口顯著、河出ブックス)のおかげですっきりしたので、正直言って、嬉しかった。200ページしかないのに、レヴィ=ストロースが何を目指していたのかが、立体的に鮮明に浮かび上がってきたのである。
新世界先住民の神話分析の最後を飾る論考『大山猫の物語』の最後から2番目の章「モンテーニュを再読して」の中で、レヴィ=ストロースは、強い関心を抱いていたミシェル・ド・モンテーニュの思想について論じている。これについて、出口は、「レヴィ=ストロース自身が、はっきりとモンテーニュの二極化傾向を(批判的に)述べてくれているわけではないが」と前置きして、「レヴィ=ストロース自身は述べていないことにも踏み込んでこの点を考えてみよう」と、論を進めているのである。この出口の一歩踏み込んだ考察によって、モンテーニュとレヴィ=ストロースの思想の共通点と相違点が明らかとなり、レヴィ=ストロースへの理解を深めることができたのである。
「いまだ到来せぬ他者のためにスペースを空けて俟っておき、到来した他者の物語を自らのなかに取り入れ、自らの神話的世界をより豊かにしながらも、なおその他者が決して自己のうちに回収できず分岐し差異を極大化していく異質な存在であることを受け入れること、それが先住民の神話的思考にある『双子の不可能性』であり、『大山猫の物語』で論じられている主題であった」。すなわち、レヴィ=ストロースは、自己と同じ規則・規範・価値観を共有しない異質な存在である他者(例えば、先住民)の立場に身を置いた「遠いまなざし」の必要性を重視しているのである。
因みに、モンテーニュも、『エセー』の中で、新世界を征服したスペインの非道な侵略や政策を非難している。