ひょんなことから発見された死海文書、ポンペイ遺跡、ラスコー洞窟壁画・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2069)】
アオサギ(写真1)、マガモ(写真2、3)の雄、雌、カルガモ(写真4)、ハシブトガラス(写真5~7)、ヒヨドリ(写真8、9)をカメラに収めました。
閑話休題、『あの場所の意外な起源――断崖絶壁寺院から世界最小の居住島まで』(トラビス・エルボラフ、マーティン・ブラウン著、湊麻里・鍋倉僚介訳、日本ナショナル ジオグラフィック社)では、意外な興味深い場所が45、紹介されています。
とりわけ興味深いのは、「死海文書の洞窟」、「ポンペイ」、「ラスコー洞窟」の3つです。
●死海文書の洞窟――。
「1947年の初夏、ヨルダンからベツレヘムへ向かうターミレ族の人々が、この不毛の地を通りかかった。彼らは数人でヤギの群れを率いていたが、1頭の姿が見えないことに気づくと、羊飼いの少年を捜索に向かわせた。この少年の名を、ムハンマド・エッ・ディーブ・アーメド・エル・ハミド、通称『狼のムハンマド』といった。・・・偶然、地下に続く洞窟の入口に行き当たった。見た目はただの岩に入った亀裂だが、ヤギの体がかろうじて通りそうな幅はある。・・・亀裂の中に石を投げ込んだ。しかし驚いたヤギの鳴き声や、石が岩をかすめる音は聞こえてこず、代わりに陶器が割れる音がはっきりと耳に届いた。洞穴の中を覗くと、確かに陶製の大きな壺のようなものがいくつも見える。これほど辺鄙な場所にこっそりと埋められているのだから、壺の中には何か貴重なものが入っているに違いない――ムハンマドはそう信じて部族のメンバーを説き伏せると、翌日に数人でこの場所へ戻った。しかし彼らが壺の中に見つけたものは、金でも銀でも宝石でもなく、古い羊皮紙でできた複数の巻物だった。ミイラのように麻布に包まれたそれらの巻物は、経年によってひび割れたり崩れたり、硫黄で黄ばんだりしており、土まみれになって異臭を放っていた。それでいて表面には、誰にも解読することのできない難解な文字が並んでいた。・・・文書の正体は次第に解明され、現存する中で最古のイザヤ書の完全な写本、ユダヤのハバククによる預言書の注解、古代の儀式や規則や規律に関する手引きであるらしいことが分かった」。現在知られている限り世界最古の聖書関連文書が発見されたのです。
●ポンペイ――。
「1709年頃、修道士のアルカンタリーニ兄弟が所有する森で井戸を掘っていたとき、ヘルクラネウムにあった劇場が完全な骨組みのまま出てきたのだ。その後30年ほどは彫刻や大理石が偶発的に見つかるだけだったが、1738年になると、ブルボン家出身のナポリ王カルロス3世の命で正式に発掘が開始される。・・・人々の興奮と注目をあおる新たな遺跡が見つかったのは、調査が始まってから10年後のことだ。そしてこの遺跡こそが、ついに姿を現した古代都市ポンペイだった」。この遺跡・遺構のおかげで、古代ローマ都市時代の人々の暮らしぶりが分かるのです。
●ラスコー洞窟――。
「1940年9月のある日、4人の少年が暇を持て余していた。リーダーは17歳の自動車修理工見習い、マルセル・ラビダで、飼い犬のロボも一緒だった。きっと、ラスコーの穴に関する噂を聞き、そこに隠された財宝があると想像をふくらませていたのだろう。少年たちは、その穴を調べにいくことにした。だが、探しているときに突然、犬のロボが穴に落ちてしまう。少年たちはペンナイフを使って穴を広げ、何とかロボを救い出した。・・・数日後、ラビダは別の友人たちを連れて再び穴へ向かった。今度は、穴を掘るための道具、ある程度の長さがあるロープ、それに古い給油ポンプを取り付けたランプを持っていった。穴を掘って入り口を開けると、ラビダはロープを使って穴の中へ下りた。ぐらぐらとしながら下にたどり着くと、そこは地下の洞窟になっていた。ラビダは近くの通路に入り、ランプを前にかざした。ちらつく光が照らし出したのは、息を呑むような壁一面の動物の絵だった。少年は図らずして、世界最高水準の先史時代の洞窟絵画に遭遇したのだ」。「牡牛の広間」に描かれた牡鹿、馬、4頭の牡牛はあたかも生きているかのように躍動感に溢れています。
●ヒリアー湖――。
オーストラリア南岸の木々が密生する島に、鮮やかなピンク色の湖があります。この大陸を「オーストラリア」と命名したマシュー・フリンダースが発見したヒリアー湖です。その色は、水中にある自然の成分。すなわちドナリエラという藻類、高濃度の天然塩、重炭酸ナトリウムが混合して生じたものです。