出口治明の人物評価が興味深い歴史読本・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2086)】
マガモ(写真1)の雄、雌が群れています。メジロ(写真3~5)をカメラに収めました。
閑話休題、『0から学ぶ「日本史」講義(戦国・江戸篇)』(出口治明著、文藝春秋)で興味深いのは、著者独特の人物評価です。
●織田信長――。
「良いものは良い、悪いものは悪いと、信長の判断はとても合理的です。後に信長は朝廷で昇進を重ね、左大臣の座も目前のところで、官職を辞してしまいます。中世の権威や伝統に頼るだけではなく、自分の目で見て、自分の頭で考える近代性を感じさせます」。
「(『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』の句の通り)信長は厳しいでと思われるのではないでしょうか。しかしこれは信長の政策に対して公正な評価とはいえません。というのは、信長は大きな理由もなくあまり人を殺してはいないのですね。実は問題を起こした部下に対しても、追放はしても切腹までさせるケースは少ないのです。足利義昭に対してもそうですし、大坂の石山本願寺攻めでの怠慢を責めた佐久間信盛父子も高野山に放逐しただけで殺してはいません。・・・部下の使い方はまっとうだったと思います」。
「信長の事績を見ると、自分から約束を破ったことはあまり見当たりません。約束は守るし、大義名分を重視していたことがよくわかります」。
●豊臣秀吉――。
「最近の巷での人気は信長、家康、秀吉の順と聞きますが、秀吉がそこそこ有能であったことは間違いないと思います。もともとの発想は信長にあったとしても、信長の描いたデザインを実行に移したのは秀吉です」。
「豊臣秀吉は、どこでどう怒るかよくわからない人です。1595年に甥で関白を継いでいた豊臣秀次を謀反の罪で失脚させたケースにしても、秀次を切腹させたうえ、妻妾子ども、家臣に至るまで殺しています。理由は利休(切腹)と同様、はっきりしません」。
●徳川家康――。
「豊臣氏を滅ぼして江戸幕府を開いた徳川家康は、タヌキ親父と呼ばれるなど、策謀家というイメージで語られてきましたが、実は幸運に恵まれただけで、この時代に生きた戦国武将のなかでは、ごく平凡な価値観の人物だったように思えます」。
「信長の忠実な同盟者とみなされるようになりましたが、目を他に転じてみると、家康はそれほど仁義を守っていません。武田と結んだり北条と結んだり、しょっちゅう同盟相手を変えています。豊臣政権では五大老筆頭でありながら、秀吉の遺言をすぐに破って有力大名との姻戚関係づくりを勝手に進めています。自分が有利なように動くという、戦国大名としてはごく普通の感覚を持っていた人だと思います」。
●徳川綱吉――。
「綱吉は幕府領(幕領)の百姓の困窮を案じ、代官は民の苦しみをよく察するようにと命じてもいます。また会計に不正があったとして、多くの代官を罷免・処罰しています」。
「綱吉という人は、現代で思われているほど悪い人ではなかったと僕は思います。賢くて合理的で、ただ自分にも部下にもすごく厳しかった。弱者にも目が行き届くのですが、行きすぎて、『犬を殺したら死刑やで』のような極端なことになってしまう。戦国時代をくぐり抜けてきた日本人の暴力性を、こうした極端な政策によって文化的に矯正しようとした名君だという評価もあります」。
●新井白石――。
「政治の中枢で働きながら、著作も残した大変優秀な人でしたが、朝鮮通信使の接遇や貨幣改鋳の件などを見ても、理想を追求するあまり、現実を直視しなかったところが見られます」。
●徳川吉宗――。
「吉宗の不思議なところは、生涯が美談に包まれていて、名君として語られていることです。不安定な立場の吉宗が、自分のことを相当フレームアップしたのだと思います。・・・『名君』パフォーマンスを繰り返しながら、政治的にも吉宗は『享保の改革』として知られる新しい施策に取り組んでいきます」。
「吉宗の時代は講談や時代劇ではバラ色に描かれがちです。しかし実際には増税路線で農民一揆が頻発したり、米の価格調整で頭を悩ませたり、その結果、将軍お膝元の江戸で最初の暴動が起きたりと現実はなかなかハードでした」。
●田沼意次――。
「田沼意次といえば、ワイロで有名です。彼が老中として権力を握った時代は、汚職だらけのひどい時代だったといわれてきました。ですが、当時の贈答文化(現代からみると破格のやりとりですが)の範囲を超えた汚職があったかどうかは実はよくわからない。むしろ田沼意次は商業に注目した立派で有能な政治家だったと僕は思います」。
「田沼意次は、自分が六百石の小旗本から老中にまで身を起こした人だけに、身分の低い人でも能力主義でどんどん登用して仕事をさせました。マーケットの力を活用して、経済財政の活性化を図りました。現代の田中角栄のようなイメージですね。しかし田中角栄に対して保守層の反発があったように、家柄を誇る人々には、田沼ら『有能な成り上がり』への嫉妬と反発がありました」。
●徳川家斉――。
「家斉は統治理念があまりなかった人だと思います。こういう人の政治が50年続いたことで、幕府の弱体化が顕わになったわけです」。
●遠山景元(金四郎)――。
「この(天保の改革で、水野忠邦が奢侈禁止令や倹約令を山ほど出した)ときの北町奉行が遠山景元(金四郎)でした。景元は市中の事情に通じていますから、贅沢禁止令を真面目にやっていたら街の灯が消えてしまうで、と手を抜きました。例えば、江戸に200軒以上あった落語などの寄席を全廃する措置や、繁華街にあった歌舞伎三座の僻地移転にも抵抗しています。・・・一方、喜んで活躍したのが鳥居耀蔵です。『蛮社の獄』で暗躍した鳥居耀蔵は、結構使えるやつやと水野忠邦には思われていたのですね。南町奉行に据えられると、法令通りにガンガン取り締まります。そうすると、江戸っ子は単純ですから、遠山景餅は正義や、鳥居(甲斐守)耀蔵は『妖怪(耀甲斐)』や、と単純な善悪二元論で遠山景元がものすごく持ち上げられ、『遠山の金さん』という伝説になっていきました。
●阿部正弘――。
「(ナポレオンのような)天才が幕末の日本にも現れます。それが阿部正弘でした」。
「『交易互市の利益をもって富国強兵の基本と成す』、つまり開国して交易し、産業革命を行って国を富まし、兵隊も強くしなければあかんという『開国・富国・強兵』というグランドデザインを阿部正弘は描いたのです。これが阿部正弘の一番の貢献だと思います。・・・(阿部の)安政の改革の一番のすごさは、川路聖謨、井上清直、江川英龍、勝海舟、永井尚志、高島秋帆といった、身分が低くても有能な人を次々と抜擢したことです。・・・『安政の改革』にみられる開国・富国・強兵という阿部正弘のグランドデザインを、大久保利通や伊藤博文がそのまま実行したのが明治維新だともいえるでしょう」。残念なことに、阿部正弘は39歳の若さで死去してしまいます。
●井伊直弼――。
「井伊直弼自身は、開国・富国・強兵派ではなく、保守的な鎖国主義者でした。しかし軍備の整わない現状では攘夷はできないと考えていました。安政の大獄のせいで、井伊直弼は独裁者のとんでもないやつやといわれていますが、史実を見れば困難な時代に冷静に状況を見て決断を重ねた偉大な政治家だったと思います。井伊直弼は茶道にも詳しく、『一期一会』という言葉を自著で紹介しています。『いまこの茶会は、生涯に一度きりやで』という精神ですね」。
●吉田松陰――。
「吉田松陰といえば松下村塾で維新の志士を育てたことで有名です。でも松陰が松下村塾で教えた時間はほんの1、2年でした。半藤一利さんは、吉田松陰や松下村塾が有名になったのは、維新の元勲と呼ばれた伊藤博文や山縣有朋らが身分の低い自分たちを権威付けるために。『松陰の直弟子やで』と吹聴したからではないかと指摘しています。吉田松陰は老中間部詮勝が京都に来たときに暗殺計画を立てていますから。現代からいえばテロリストといってもおかしくない人です」。
●西郷隆盛、大久保利通――。
「西郷隆盛や大久保利通ら若い下級藩士出身者たちは、『既得権にあぐらをかいた徳川家と旧体制を潰して、天皇を中心とした(俺たちの動かす)新しい体制をつくるで』と腹を決めていたのですから、もう大義などはどうでもいいのです。ここで連想されるのが、1917年のロシア革命です。・・・西郷や大久保はボリシェヴィキだと考えればわかりやすいでしょう。こうして実質的にはここで徳川の時代、日本の近世が終わりを迎えました。やがて日本のボリシェヴィキたちが明治新政府をリードしていきます」。
出口治明の人物評価に、概ね賛成です。