榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

古井由吉の独特の世界が覗ける一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2096)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年1月8日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2096)

ジンチョウゲが赤紫色の蕾を付けています。因みに、本日の歩数は13,572でした。

閑話休題、『書く、読む、生きる』(古井由吉著、草思社)には、古井由吉の講演録、書評、エッセイが収められています。

「凝滞する時間」では、夏目漱石が取り上げられています。「『硝子戸の中』を読んでいきますと、漱石には時間と空間の感じ方に独特なものがある。・・・漱石ももちろん時間、空間を描く達人でありますが、それが、どう言ったらいいか、とぐろを巻きやすい。時間が無時間の中に凝滞しやすいんです。空間も、別に前衛的な手法をもてあそぶわけじゃないけど、淡々と書いてるようでいつの間にか変質していることがよくある。特に時間のほうで感じたのは、今から思うとずいぶんつまらない話ですけど、『硝子戸の中』で、大塚楠緒と雨の日に本郷の切り通しから折れた裏路で出会う。大塚楠緒という人は漱石の恋人とも擬せられた、美人だそうですが、むこうは人力車に乗ってやってきて、傘をさして歩く漱石は美しいと眺めるうちに、車上の佳人が目礼して過ぎる。あとで本人に会ったとき、たいそうお美しかった、芸者のようでしたというようなことをいうんですね。その時大塚楠緒は顔を赤らめもしない、いえ、そんなこととかと打ち払いもしない。これを読んで,たぶん、大塚楠緒というのはどこか表情の乏しい美人だったんじゃないか、と思いました。すると、『あるほどの菊投げ入れよ棺の中』という彼女への手向けの句が、また別のイメージで浮かんできた。それはともかくとして。その句を書いた短冊を知人が欲しいといって持っていった。それも『もう昔になってしまった』と書いている。病人の鈍った頭ながら、何年前のことか数えました。十分以上かかって、足かけ五年、四年と三ヵ月ぐらい前と分かりました。そのくらいを『昔』ということはあるにはある。しかし大塚楠緒とすれ違ったのは、それよりさらに三年から五年前のこと。そこらの時間の経過が、あの文中ではほとんどない。すべて『昔』と位置づけられている」。

「秋聲と私」という一文には、徳田秋聲への敬愛の念が籠もっています。「この年になっても秋聲のことはとても語りきれません。・・・専門家筋とか、特に文学に通じている人々の間での評価が高かったように思います。非常に渋い作家ですね。さて、今の世の中にはどうでしょうか。三十代でデビューした私や、もう少し遅れて出た中上健次などが敬愛の念を表しており、それから見直されてきた感もあります。私も年をとって、気鋭の若い作家たちに『今はそれどころじゃないかもしれないが、少し進んで書くことが難しくなってきたら、文章も生き方も随分違うけれど、秋聲を読んでみたらどうか』と勧めています。なかなか手強いですよ、と。私などとは文章がまったく違いますね、ある意味では私の文章の方が精密です。ただ、ちょっとした人物の描写でその人間を彷彿させる力とか、会話のある響きでその状況とか心境とか人柄をあらわす力というのは、実はたいしたものなんです」。

「野間宏と戦後文学」のせいで、野間宏の『顔の中の赤い月』を読みたくなってしまいました。「野間さんというのは牛のような歩みなんだけれど、そのくせに切り込みが激しくて、往々にして切り込みが激し過ぎて、小説として苦しいというようなことがある。この『顔の中の赤い月』も、大変な踏み込みようをしているんですね。『顔の中の赤い月』、これは冒頭にもう、その構えは出ているんです。主人公が、夫を戦死させた戦争未亡人ですね。細川倉子といいますね。小説の冒頭です。『未亡人堀川倉子の顔の中には、一種苦しげな表情があった』。これがまた、『顔の中の苦しげなもの』という言葉で繰り返される。これが既に顔の中の赤い月なんです。主人公の男は、ほとんど無縁同然のこの戦争未亡人の中にある種の苦の色を感じる。この苦がまた美につながっている。それで引き寄せられる。美に引き寄せられるのですけれど、むしろ苦に引き寄せられる。その未亡人の顔を見たいんだけれども、見たくもない。見れば、苦しみを誘い出される。しかしまた一方では、苦しみを誘い出されたがっている。これなんです。『顔の中の赤い月』とはこの主人公の男がフィリピンあたりの戦地で、かつがつの状態で眺めた月ですね」。