夏目漱石の作品は、母に愛されなかった子という主題に貫かれているという仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3137)】
ミゾゴイ(写真1~5)、アカゲラの雌(写真6~9)、ヤマガラ(写真10)、ユリカモメ(写真12、13)をカメラに収めました。ベンケイヤマガラと呼ばれるヤマガラの暗色個体(写真11。この写真は、私ではなく、行き合ったバード・ウォッチャーが撮影したもの)とリュウキュウサンショウクイにはタッチの差で出会えませんでした(涙)。因みに、本日の歩数は15.335でした。
閑話休題、『漱石――母に愛されなかった子』(三浦雅士著、岩波新書)は、夏目漱石は母に愛されなかった子というトラウマを持ち続け、それが彼の作品に色濃く反映されていると主張しています。
『坊っちゃん』にこういう一節があります。<おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった、母は兄ばかり贔屓にしていた>。
「『吾輩は猫である』はもとより、『坊っちゃん』から『門』にいたるまで、表向きの主題がどのように変わろうが、この心の癖だけは溶けることがない。母に愛されなかった子という漱石人生上の主題などともっともらしい言葉を用いましたが、要するにそれは、自分は母に愛されていなかったのではないかという苦しい問いによってできあがってしまった心の癖、行動の癖である」。
「初期三部作と言われる『三四郎』『それから』『門』はもちろん、後期三部作と言われる『彼岸過迄』『行人』『心』のなかにも、母に愛されなかった子という主題が直接的に書き込まれているわけではない。けれど、自分は母に愛されていなかったのではないかという疑いが生み出した心の癖が一貫した主題になっています」。
「漱石は、母に愛されなかった子という主題を背負って長い道のりを歩いてきました。『虞美人草』や『彼岸過迄』においては直接的に、『それから』や『行人』においては間接的に、その主題を扱ってきた。『心』の先生とKの境遇や心理のなかにその主題はさまざまな変奏とともに集約的に流れ込みますが、こうして明らかになったのは、それは母の問題ではなく、むしろ自身の心の問題、心の癖の問題であるということでした。漱石が『硝子戸の中』に、それこそ愛憎を別にして、母の姿を冷静に描きえたのはこのような過程を経ることによってでした。いわば、その総仕上げが『道草』であった」。
「自分は母に愛されていなかったのではないかという小さな疑いの粒が、貝を傷つけながら大きな真珠となり、読むものを惹きつけ、深い思索に誘うことになった。漱石のテクストはそういうふうにできているのだと思えます」。
著者の仮説に全面的に賛成とは言い難い――これが私の偽らざる読後感です。