悪人は聡明で、悪には文法があり、決して無法でない・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2100)】
コサギをカメラに収めました。
閑話休題、『悪人礼賛――中野好夫エッセイ集』(安野光雅編、ちくま文庫)に収められている『悪人礼賛』は、中野好夫の面目躍如の一篇です。
「由来ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる。考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。・・・悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決まっているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質劇には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない」。
「それ純情にいたっては、世には人間四十を過ぎ、五十を越え、なおかつその小児のごとき純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。だた、四十を越えた純情などというのは、ぼくにはほとんど精神的奇形としか思えないのである。それにしても世上、なんと善意、純情の売り物の夥しいことか」。
「ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝でるとさえ信じている。狡知とか、奸知とか、権謀とか、術数とかは、およそ世の道学的価値観念からして評判の悪いものであるが、むしろぼくはこれらマキアベリズムの名とともに連想される一切の観念は、それによって欺かれる愚かな善人さえいなくなれば、すべてこれ得難い美徳だとさえ思っているのだが、どうだろうか」。
「近来のぼくは偽善者として悪名高いそうである。だが、もしさいわいにしてそれが真実ならば、ぼくは非常に嬉しいと思っている。ぼく年来の念願だった偽善修業も、ようやく齢知命に近づいて、ほぼそこまで到達しえたかと思うと、いささかもって嬉しいのである」。
内容も論調も文体も、私の理想とするエッセイが、ここに現存しています。