榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

太平洋戦争を始めた黒幕は誰だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2668)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年8月6日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2668)

今季初めて鳴き声を聞いたツクツクボウシの雄(写真1、2)をカメラに収めることができました。イラガ科の一種の幼虫(写真3)を見つけました。夏休みのイヴェント「プチ水族館」で、アカエイ(写真4~7)、ウツボ(写真8)、タツノオトシゴ(写真9~11)、カクレクマノミ(写真12、13)、タコクラゲ(写真14)、スカンクシュリンプ(写真15)に出会いました。我が家の庭にツマグロヒョウモンの雌(写真16)がやって来ました。

閑話休題、『あの戦争は何だったのか――大人のための歴史教科書』(保阪正康著、新潮新書)には、太平洋戦争を始めた黒幕は誰だったのか、そして、戦争を終わらせようと決めたのは誰だったのか――など、驚くべきことが書かれています。

「陸軍大臣の東條をはじめ。『軍部』は、埒のあかない日米交渉に痺れを切らしていた。この期に及んでは、一刻も早く戦端を開くべきだと、強硬論一色に染まっていく」。

「近衛(首相)の後継者選びをめぐっては、内大臣の木戸孝一が裏で糸を引いていた。木戸はいわば天皇の相談役ともいえる側近の立場であった。木戸は、天皇の意を汲み、9月6日の御前会議で決まったことを白紙還元できるような内閣を作らなければならないと考えた。そして一つの賭けに出る。一番の強硬論者である東條を首相に据えることであった。東條は、とにかく天皇への忠誠心に篤い男であった。それをあえて利用しようとしたのである。木戸の報告を受けた天皇は、この時木戸にこう語ったという。『虎穴に入らずんば、虎子を得ずだね』」。

「実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。・・・私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。・・・この『第一委員会』のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。『第一委員会』が、巧妙に対米英戦に持っていくよう画策していたのである。『第一委員会』が巧妙に戦争に先導していった一つの例として『石油神話』がある。・・・つまり、『石油がない』という舞台設定をしないと、戦争開始の正当化はできない。特に海軍は船を動かすことができなくなってしまう、というのが大義名分としてあった。それをうまく利用したのである。石油の備蓄量が、実際にどれだけあるかなど、いったい何人が正確に把握していただろうか。開戦に至るには、実はそうした裏のシナリオが隠されていたのだ。そのシナリオを書いたのが、『第一委員会』だったのである。彼らは巧妙であった。官僚として動くので、決して目立つことはない。責任がかからぬよう、うまく計画もされている」。

「なぜ彼らは戦争を欲したのか。満州事変、日中戦争と陸軍ばかりが表面上は国民に派手な戦果を誇っているのに海軍はいっこうに陽があたらない。アメリカ依存の石油供給体制を脱し、東南アジアの油田地帯を押さえて、不安のないようにしたい。軍縮条約から解放されての建艦自由競争で大艦巨砲主義に相応の自信をもったことなどがあげられよう。だが同時に時の勢いに流されたということも指摘できるように思う」。

開戦は、陸軍の暴走に日本が引き摺られていったという構図は、訂正されるべきというのです。

「(小磯内閣総辞職後の重臣会議で)しばらくのやりとりのあと、内大臣の木戸孝一が開口一番、『鈴木貫太郎では、どうだろうか』と持ちかけた。実は、この鈴木貫太郎首相の構想は天皇の発案であった。木戸は、その天皇の意を受け、発言したのである。・・・天皇は、既にこの時点で、戦争に決着をつけることに意を決していたのだ。そのためには、もっとも信頼する鈴木に首相を託する以外にないと考えていたのである、・・・天皇自ら鈴木に『頼むから、どうかまげて承知してもらいたい』と説得までしていた。さらに鈴木には、天皇の意である『戦争終結を模索すること』も伝えられたのであった。・・・以後、鈴木は、表向きは陸軍の『本土決戦』を受け入れている素振りを見せながら、『和平の模索』も進めていくという、『奇妙な二面策』で舵取りを強いられることになる」。

「(広島と長崎への原爆投下を受けて)事態はもう一刻の猶予も許さないところまで来ていた。そして、ここで『二・二㈥事件』以来、決して意思表示をしてこなかった天皇が、ついにその禁を破る時が来る。天皇は、まず東郷に次のように命じた。『このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない。不可能である。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸、鈴木にも伝えよ』。天皇には、当初広島への原爆投下は告げられていなかった。しかし、天皇はそのことに気づき、報告を受けてこの決断をしたともいえた」。

「『戦争が終った日』は、8月15日ではない。ミズーリ号で『降伏文書』に正式調印した9月2日がそうである。いってみれば8月15日は、単に日本が『まーけた!』といっただけにすぎない日なのだ。世界の教科書でも、みんな第二次世界大戦が終了したのは、9月2日と書かれている。8月15日が『終戦記念日』などと言っているのは、日本だけなのだ。『終戦』という言葉も、私はどうも気に入らない」。