榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

薩長が目論んだのは討幕ではなく、「一会桑」潰滅だったという大胆かつ説得力のある仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2141)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年2月22日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2141)

我が家の庭の餌台は、連日、野鳥たち――メジロ(写真1~4)、シジュウカラ(写真4~10)、スズメ(写真10~12)、ヒヨドリ(写真13)、キジバト(写真14)――で大賑わいです。

閑話休題、『江戸幕府崩壊――孝明天皇と「一会桑」』(家近良樹著、講談社学術文庫)は、知的好奇心を激しく掻き立てる、力の籠もった著作です。

薩長を中心とする西南雄藩が武力でもって、つまり藩の軍事力を行使して江戸幕府を倒したという世の定説に、著者は敢然と反論を展開しています。「こうした通説的な考え方に立てば、薩長両藩を中心とした戦いが高く評価され、それに対して倒された幕府側の評価が低くなるのは当然のことである。いささか乱暴だが、明治以後、我々が持っていたイメージは、薩長両藩が英雄的な戦いを幕府に対して挑み、幕府を倒した過程が幕末の政治過程なんだといったものではなかったかと思う。そして、こういうイメージが、学校教育を通して、あるいは小説とか映画・ラジオなどを通して、国民の間に広く浸透し、国民共通の歴史認識となっていったのが実情ではなかっただろうか」。

「幕末史の勉強をし直していて、改めて(明治天皇の父)孝明天皇の存在に注目しなければならないと思ったからである。はっきり言えば、孝明天皇が攘夷にあそこまでこだわらなかったら、日本の幕末史はまったく違ったものになったと考えられる」。

著者は、孝明天皇が自分の代弁者足り得る政治勢力として、「一会桑」を抱き込んだと見ているのです。「一会桑」とは、一橋慶喜、会津藩(藩主:松平容保)、桑名藩(藩主:松平定敬。容保の実弟)の三者を指しています。

著者は、坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介して、仲違いしていた薩摩(西郷隆盛)と長州(木戸孝允)の手を握らせた薩長同盟を過大評価すべきでないと主張しています。「私も、薩長間に同盟的な関係が成立した意義を否定するつもりは毛頭ない。が、どうも、これは実態よりもはるかに過大評価されてきたと考える。すくなくとも、私には薩長同盟が武力倒幕をめざした攻守同盟であったなどとはとうてい思われない」。

「幕府本体に対する戦いは、ものすごく危険であった。幕府が、ことの外、弱かったというのは、むろん倒れてからの話で、幕府は内臓疾患で重症ではあっても、外見は何しろ巨象だから、幕府本体に戦いを挑むことはまず考えられない。幕府の有する広大な所領と多くの直臣(旗本・御家人)、それに徳川家と強く結びついていた譜代大名の集団、これらの存在を思い浮かべれば、このことはすぐにわかることである。薩摩藩にしても長州藩にしても、藩の総意として、幕府に対して公然と戦いを挑むことを決定したことは一度もない。そんなことはありえない。なぜか。そんなことを決定すれば、藩内にものすごい反対運動が起こり、下手をすれば藩そのものが解体しかねないからである」。

「この慶応2年1月の時点で、在京薩藩指導者が打倒しようとした対象が、幕府本体ではなく一会桑三者らであったことは、幕藩体制本来のあり方からいっても当然のことであったといえる」。「幕府に対して強硬な姿勢をみせることと、実際に兵を挙げて幕府本体と戦うことは、その危険度において著しい相違が当然のことながらあった」からです。

王政復古クーデタについても、定説に異議を唱えています。「薩摩側がクーデタ方式に固執した理由であるが、これは、おそらく天皇を政治的主体とする新しい国家を創設するにあたって、彼らが人心の覚醒をなによりも必要としたことと大いに関係があると思う。いうまでもなく、二百数十年におよんだ幕府独裁政治のもと、朝廷・諸藩の双方には、現状肯定的な馴れ合い精神が、積年にわたって累積していた。が、天皇を中心とする新しい国家を創出していくにあたって、この馴れ合い精神が一番の障壁となるであろうことは、容易に予想された。・・・新国家の建設にあたっては、当然のことながら、そうした抵抗を排除して大改革をどうしても行わねばならなかったことはいうまでもない。そこで、まずこの馴れ合い精神を一気に粉砕するために、クーデタ方式という、いわばショック療法が是非とも必要となってくる」。

「大久保(利通)や西郷が武力発動をあえて口にし、クーデタ方式に固執した最大の理由は、討幕の決行にあったのではないと考える。そうではなくて、王政復古に難色をしめす会津・桑名両藩を挑発し、両藩をたたき潰すことで、佐幕派勢力に潰滅的な打撃を与え、そのあと王政復古にむけての作業を一気に進行させようとしたためだと考えている」。

著者の仮説は大胆かつ画期的なものであるが、十分な説得力を備えていると、私は考えています。

なお、本書には、「討幕」と「倒幕」という似通った用語が出てくるが、「討幕」は「武力倒幕」を意味するため、「討幕」と「倒幕」は分けて考えることが必要でしょう。