豊臣秀吉の正室・ねねは、養子たちを通じて天皇家、徳川家とも繋がっていた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2171)】
ソメイヨシノ(写真1~4)、イズヨシノ(写真5~9)、ゴシンザクラ(写真10)、ヤエベニシダレ(写真11)、和ナシ(日本ナシ)の野生種・ヤマナシ(写真12~14)の花が咲いています。因みに、本日の歩数は11,543でした。
閑話休題、『日本史を動かした女性たち』(北川智子著、ポプラ新書)は、豊臣秀吉の正室・ねねに強力なスポットライトが当てられています。
「これまで、日本での通説では、ねねは豊臣側の人間であり、豊臣家の存続に加担するのが当然、あるいは、豊臣を裏切って徳川の肩を持ったとされてきました。しかし、豊臣家の一員である以上に名だたる武将たちの『母』として、財力のある『個人』として、『家』に属さない独立した唯一無二の存在として生きていました。振り返ると、ねねと秀吉の養女として育てられた女児たちは、後々、ねねの姻戚関係を強めることになりました。たとえば、公家の近衛前久の娘の前子は、秀吉とねねが大坂城にいた頃に養女となり、のちに後陽成天皇と結婚し、皇后として12人の子供を産みました。ねねは天皇の義理母になっただけでなく、後陽成天皇を継いで即位した後水尾天皇の祖母という関係にもなりました。さらに、秀吉とねねの養女として浅井家からやってきた江は、徳川秀忠と婚姻し二男五女をもうけます。この婚姻で、ねねは徳川秀忠の義理母にもなりました。ねねは豊臣と徳川と天皇家の母として、祖母として、重要な立場を占めていきました。実子がいないことで養子縁組を戦略的に捉え、一夫多妻、結婚と養子のシステムをうまく利用して、自分の子供を持つよりも恵まれた地位に自らを置き続けたのです」。
「ねねは生涯、人との繋がりを切ることがありませんでした。現実から目をそらさず自分で筆をとって手紙を書いて、離れて住む人たちとの交流を絶やさなかったのです。天下統一という波乱の時代を、ねねはしっかりと生き抜きました」。
本書のおかげで、私の知らないねねの一面に触れることができました。