榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

江戸は、庶民が主役の、エキサイティングな町だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2273)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年7月3日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2273)

カンナが咲いています。

閑話休題、『江戸はスゴイ――世界一幸せな人びとの浮世ぐらし』(堀口茉純著、PHP新書)には、「江戸時代はスゴイ時代だった、特に江戸という都市は、同時代の世界を見回してみても、他に類を見ない、エキサイティングな町だった」という著者を思いが籠もっています。

その著者の思いがぐいぐいと私たちに伝わってくるのには、3つの理由があります。

第1は、たくさん掲載されている絵が、江戸の賑わいぶり、庶民の浮き浮きとした生活ぶりを雄弁に物語っているからです。いずれも著者が選び抜いた、江戸人によって描かれた絵画史料ばかりです。

「名もなき庶民の活気あふれる日常が、目に浮かぶようではありませんか。私はこの、まるで『庶民が主役』といわんばかりの描き方を、とても新鮮に感じると同時に、自分が無意識に、江戸は『武士が主役』の町だと思い込んでいたことに気づかされて、ハッとしました。・・・一方では、確かに『庶民が主役』の町でもあったのです。江戸の庶民は、実にイキイキと町を闊歩していました」。

第2は、江戸の庶民に交じって楽しんでいるかのような、著者の直截な物言いが成功しているからです。

第3は、現在の庶民である私たちが知りたいことを、ズバリと教えてくれるからです。

例えば、上水道については、このように説明されています。「江戸が大都市に成長するために、解決しなければならない大きな課題があった。それは飲み水を、どう確保するかということだ。・・・これを解決すべく、徳川家康の入府前後に、まず開設されたのが上水道・神田上水だ。水源は武蔵野の井の頭池。途中で、善福寺池から流れ出る善福寺川や、妙正寺池から流れ出る妙正寺川を合わせた江戸川の水流を、目白台下の関口の堰で分水し、小日向台の下、小石川の水戸藩邸邸内を通って、懸樋を使って神田川を立体交差して渡すという離れ業をやってのけ、神田・日本橋方面を中心に配水管となる木樋(または石樋)で、総延長63キロにもなる上水道を通した。木管を通った水は、町ごとに水道タンクとなる上水井戸から汲み上げて使う仕組みになっており、当時のハイテク技術を駆使した土木事業である」。

「都市の拡大と共に賄いきれなくなったために、新たな上水道が引かれることになった。これが玉川上水だ。承応元(1652)年に幕府が立てた計画は、武州多摩郡の羽村を水源として堰を設けて多摩川の水を取り込み、水門となる四谷大木戸まで43キロメートルの水路を開削して市街地に配管。江戸城はもちろん、赤坂、麹町といった高台から芝方面にまで給水する、配水管の総延長85キロメートルという、壮大なものだった。翌年から、この無茶ぶりすぎる壮大な計画の現場工事を請け負ったのは、江戸の町人(水源近くに住む農民とも)庄右衛門・清右衛門の兄弟である。問題は山積みだった。たとえば、羽村の水源→四谷の水門までの43キロメートルのあいだには高低差が92メートルしかない。自然流下方式(ポンプなどを使って加圧するのではなく、地盤の高低差を利用して水を流す仕組みのこと)で水を流すには、100メートルで20センチちょっと下がってゆくという超繊細な水路を作る必要があったのだ。・・・途中で2回失敗し、幕府が提示した予算が底をついたため、あとは私財を売り払い自腹で工事を進めたなんて逸話も残っている。健気!・・・こうして17世紀半ばにして、江戸には神田上水と玉川上水の総延長を合わせて150キロ弱という、当時、世界最大級の上水道が完成した」。

庶民が暮らす裏長屋は、住めば都だったというのです。「明け六つの鐘を聞き、木戸が開くと、江戸の町が動きだす。・・・町屋敷の表通りに面した表店を持つのが庶民の憧れだったが、町人人口のおよそ7割の人は、表通りから一本裏手に造られた裏店=裏長屋で生涯を終えたのが現実である。裏長屋と表店との落差たるや(笑)! 木戸に下がっている色んな札や看板には、この区画に住む住人の職業・商売の広告が書かれている。・・・道には朝飯用の食材を売る行商があふれている。天秤棒を担いでいる子供はアサリ売り。『アサリ~エェ、シジミよ~』という元気な声が聞こえてくるようだ。混沌としているがいかにも江戸の庶民らしい暮らしぶりがうかがえて面白い。熊さん八つぁんが主役の世界である。・・・お隣さんを隔てるのは、薄い壁と障子のみ。すべての生活音が筒抜けで、プライベートなんてない。現代の貧乏芸人さんでも、もう少しましな住環境のような気がする・・・。しかし、裏長屋暮らしには大きなメリットもあった。生きていくのに、お金がかからなかったのである。たとえば、町の維持運営にかかる町入用、現代風にいうと税金の負担がなかった。町入用は、基本的に小間割り(町屋敷の表間口1間を単位にする課税方式)だったので、正式な町人である地主、家持層が負担して、町政にかかわる発言権や町役人の選挙権、被選挙権を得ていた。裏長屋の住人は、こういった公民権を持たない代わりに、無税で暮らせたのだ。たとえ地震や火事で家屋が焼失しても、住居は地主が建て直してくれたから、貯金をする必要もないし、月々の家賃は300文(6000~7000円)程度と格安で、わけあり物件ならば、さらに安くなった。専門技術や学歴なんかなくても、日雇いの仕事や行商で、その日暮らせる分の金を稼げば、最低限の暮らしができたのだ。気楽なフリーター生活を謳歌していた、江戸の裏長屋の住人。彼らの生き方がまぶしく感じられるのは、私だけだろうか」。