榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『万葉集』の庶民の愛の歌は、しみじみと胸に沁みてきます・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2194)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年4月16日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2194)

我が家の庭の餌台に、連日、常連のシジュウカラのカップル(写真1)がやって来るのだが、今日は、雄が雌に口移しで餌の落花生をプレゼントするシーンを2回も目撃しました。求愛給餌を目の当たりにして、女房と顔を見合わせてしまいました。残念ながら、その瞬間の写真は撮れませんでした。コデマリ(写真2)、オオデマリ(写真3)、クレマチス(写真4)、ヒメウツギ(写真5)が咲いています。モッコウバラ(写真6)が芳香を漂わせています。因みに、本日の歩数は11,966でした。

閑話休題、『万葉の愛と死』(山本藤枝著、立風書房)には、著者によって『万葉集』から選び抜かれた愛と死の歌が溢れています。

とりわけ印象に強く残ったのは、<朝戸出の君が足結を濡らす露原つとに起き出でつつわれも裳裾濡らさな>(作者不明)です。「『朝戸出』は、朝、戸を開いて男が女の家から帰ること、つまり朝帰り。夜、男が女のところへしのんで来て、朝早く帰る、というのが、妻問いのごく普通なかたちだったのだ。『足結』は、膝の下で袴を結んだ紐のこと。朝早く、あなたがお帰りにある野原の道は露がいっぱい。きっと足結も濡れましょう。せめてわたしも朝早く起きて、裳の裾を濡らしましょう(ほんのそこまででも、お見送りに出たいのです)、という歌意である」。

<朝寝髪われは梳らじ愛しき君が手枕触れてしものを>(作者不明)。「一読、女性の、――前夜、恋人との愛を満喫した女性の歌とわかる。その初ういしくもなまめかしいすがた、表情が目前に浮かぶような歌である。『朝寝髪』も、女性には親しく感じられる言葉。朝起きて、鏡を前に、先ずととのえるのが髪、――寝乱れ髪だからだ。この作者の寝乱れ髪には、単なる乱れ髪ではなくて、特別の思いがこもっている。愛するあのひとの手がふれた髪なのだ。『手枕』は、恋人どうし、たがいに手をさしかわし、相手の手を枕とすること。だから、単に手がふれたというだけではない。まるで宝物でもこもっているように思える髪。この髪に櫛を入れたら、その宝物がこわれそう。だから、『梳らず』におこうというのだ。まだ共棲みの段階ではなく、おそらく、相手は、夜明けに彼女のもとから帰っていったのにちがいない。そのひとを送りだしたあとのさびしさはさりながら、まだ胸には一夜の濃密な愛の名残があふれていて、なかば夢みるような、陶然とした状態の彼女なのだ」。

<難波人葦火焚く屋の煤してあれど己が妻こそ常めづらしき>(作者不明)。「『難波人葦火焚く屋』というのは、難波は葦の名所で、燃料によく葦を使った。そのけむりで屋内はすすける。そこまでを、『煤してあれど』の序とした。すすけた妻とは、古ぼけた妻、つまりは古女房ということだろう。そういうわが妻こそ、いつも変らずかわいい、というのである。そう来なくちゃ、これまでさんざん苦労してきたんだもの、と、満面に笑みをたたえて喜ぶ古女房が、二十世紀の今も巷のあちこちにいるにちがいない。よそ行きの、気どった歌ではない。庶民でなければ詠めないような歌。否、むしろ、文字であらわすより、口でうたって、同感者がつぎつぎへと伝えていった民謡のような感じがする」。

<住吉の小集楽に出でて現にも己妻すらを鏡と見つも>(作者不明)。「この歌には、つぎのような意味の後注がついている。『むかし、一人の田舎者があった。姓名はわからない。ある時、里の男女があつまって野遊びをした。この田舎者の夫婦も、野遊びに加わったが、その妻の美しさは群を抜いていた。そこで夫は、あらためて妻をいとしく思い、妻の美しさをたたえてこの歌を作った』。『小集楽』の『つめ』は橋のたもとの意だが、そこへ人びとがあつまって、ちょうど歌垣のような遊びをしたことをいうのだろう。『己妻すらを』は、『じぶんの妻であるのに』、『鏡と見つ』は、鏡はこの時代の人にとっては貴いものとして大切にしたので、その鏡のように貴くだいじなものとして見た、という意。この夫は、ふだんは特別に何とも感じなかったのだろうが、大ぜいのなかで特別に美しく輝く妻を発見して、妻の美しさをあらためて見なおしたというわけなのだ。こんなことば、現代にも珍しくない話だろう。ただ、現代の夫は、テレて、この夫のように言葉には出さないだろうけれど・・・」。

有名な歌人の歌もいいけれど、庶民の歌はしみじみと胸に沁みてきますね。