榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

秀吉、良寛、龍馬、隆盛、漱石の手紙は味があるなあ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2341)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年9月14日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2341)

キジバト(写真1)、アオバハゴロモ(写真2)をカメラに収めました。キンモクセイ(写真5)の芳香が我が家を包んでいます。庭のハナミズキ(写真6、7)が紅葉し始め、実を付けています。ナツツバキ(写真8)も実を付けています。片隅では、シロバナマンジュシャゲ(写真9)、小さなバラ(写真10)、タイワンホトトギス(写真11)が咲き、アオジソ(写真12)が育っています。

閑話休題、『手紙のなかの日本人』(半藤一利著、文春文庫)で取り上げられている手紙は、いずれも興味深いが、とりわけ印象的なのは、豊臣秀吉、良寛、坂本龍馬、西郷隆盛、夏目漱石の手紙です。

●豊臣秀吉――
「(文禄元<1592>年)8月3日付けのもので、(朝鮮の役も)いくらか余裕も出来たので、9月10日ごろには名護屋をたち、帰坂する予定である、と書いた後に、<九月廿五六日頃には、大坂へ参り申すべく、せつかく御まち候べく候。ゆるゆるだきやい候て、物がたり申すべく候>。(おねあて)。ゆるゆるだきやいて、『ゆっくりと抱きあって物語しよう』とは。ときに秀吉57歳、おね46歳、いやはや御両所、相当なものと申すほかはない。『おねへ』『大かう』とこのラブ・レターは結ばれている」。

●良寛――
「この酒一樽はただの贈りもののようではない。贈り主は良寛に何か書かせようとしたものらしい。上機嫌の良寛は、さっそく請け給わったと、一筆ふるわんと一も二もなく承知している。かならず掛軸になるような巻物を仕上げるから、酒を下さいな、という次第である。<例年の通り炭もたせ下さり千万難有(ありがたく)候。当年はこたつも出来候てつごうよろしく候。並に御酒一樽 恭拝(うやうやしく) 受仕候。以上>。良寛の手紙を読んで感服するのは、その文章の簡潔さである。いいたいことはすべていいつくしている。とくに無心の手紙である。書きにくいし、貰ったほうもあまり歓迎したくない。その微妙なところを、見事なユーモアで包んでいる。そして良寛その人の人品までがしのばれてくる」。 

●坂本龍馬――
「勝海舟という天下の傑物の弟子になったことが嬉しかったんだ、とみれば納得もされるであろう。・・・海舟の発案で、神戸に海軍操練所ができることになり、塾頭として龍馬はやがて活躍することになる。いまはそのことが嬉しく楽しくてならないのである。どうだ、姉さん、俺が昔いったとおり、これからの世は海軍だ、と龍馬はエヘンエヘンと得意になる。<此頃は、天下無二の軍学者、勝麟太郎といふ大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先、客分のよふな者になり申し候。・・・すこしエヘン顔をしてひそかにおり申し候。達人の見る眼は恐ろしきものとかや、徒然(草)にもこれあり。猶、エヘン、エヘン。かしこ>(乙女あて)。思わず頬が緩んでしまう。龍馬はときに28歳」。

●西郷隆盛――
「慶応4(1868)年3月14日、江戸城総攻めの前日、勝は西郷と会談し一気に無血開城の決着をつける。会談は対等の談判であり、政治家勝の理にかなった論理が、革命家西郷の熱情を冷ました。いいかえれば、勝の気力勝ちといえる。<初めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物にて、最初は打叩くつもりにて差越し候処、頓と頭を下げ申し候。どれだけ智略があるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。先づ英雄肌合の人にて、佐久間(象山)より事の出来候儀は一層も越え候はん。学問と見識におひては佐久間抜群の事に御座候へども、現時に臨み候ては此の勝先生と、ひどくほれ申し候>(大久保利通あて))。

●夏目漱石――
「明治38(1905)年秋から冬へ、38歳の漱石はこのまま東京大学教授への道を歩まんか、すべてを捨てて作家一本で生涯を拓かんか、二者択一に思い悩んでいた。<とにかくやめたきは教師、やりたきは創作、創作さえ出来ればそれだけで天に対しても人に対しても、義理は立つと存候>(高浜虚子あて)。<人は大学の講師をうらやましく思い候由、金と引きかえならいつでも譲りたく・・・>(奥太一郎あて)」。