榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

源頼光が退治した酒呑童子は、山賊などではなく、疫病神だったという仮説・・・[情熱的読書人間のないしょ話(2398)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年11月10日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2398)

我が家の庭の餌台には、早朝から、メジロ(写真1~5)、シジュウカラ(写真6~10)たちが入れ替わり立ち替わりやって来ます。

閑話休題、『定本 酒呑童子の誕生――もうひとつの日本文化』(髙橋昌明著、岩波現代文庫)では、酒呑童子の正体について、著者の見解がはっきり示されています。

「これ(疱瘡)を流行らす疱瘡神こそ酒呑童子の原像である、というのが本書の立場である。その疫神が大江山をすみかとするにいたった秘密についても、詳細に追求した」。

「(源)頼光の酒呑童子退治説話成立の背景に、大江山にこもる山賊征伐の史実があったと推測するむきが多い。すでに(貝原)益軒も『酒顚童子は古の盗賊なり、夜叉の形をまねて人をおどし、人の財宝を奪ひ、人の婦女をかすむ』、『酒顚童子は古の盗賊なり、鬼の形をまねて、人の財をかすめ、婦女をぬすみとる』などと述べている。これに説得性をもたせるため、延応元(1239)年、鎌倉幕府が鈴鹿山・大江山の『悪賊』鎮圧を近在の地頭に命じたことが、よく引き合いに出される。私は、この種の一見合理的、『科学的』な問題処理には不満である。なぜなら、仮りに鬼退治の背景が盗賊征伐だとしても、それだけでは、複雑な要素とプロットを持った鬼退治物語へと説話化される、その意識過程・創作過程をなんら解き明かしていない。つまりは、たんなる仮説、いや思いつきの域を出ていない。さらに、仮説はそれを武器に何かを解明しようと努めるところに意味がある。なにごとも解明しようとしない仮説は、仮説としての意味がない。こうしたわけ知りの論法には、それ以上の分析や掘り下げを抑止する不毛(精神の怠慢)がある」と、一刀両断です。

「つぎに、当然のことだが、説話と史実の間には深い質的隔たりがある。それでいて架空のもの(非現実の世界)には、史実とは異質の、意識活動の産物としての独特の実在性がある。それをあたかも同一次元に並ぶかのようにして、架空のものの有する堅固な実在性を解体し、山賊征伐という散文的事実に解消して足れりとする。これでは中世人の感性や想像力、潜在意識、コスモロジー(宗教的・哲学的な宇宙論)に迫りようがないではないか」。

著者は、「歴史的契機としての疫病の流行や四堺祭を強調しながら、なおそれらが生み出した観念や恐怖感が、説話として結晶してゆく複雑なプロセスを、可能な限り追求する」と、高らかに宣言しています。

「都での疫病の流行から『酒天童子物語』という中世小説(室町時代物語)として豊潤な内容を備えるにいたるまでを、可能な限り追いかけてみた」。

巻末の解説で、永井路子が、こう述べています。「大江山の酒呑童子の原像は疫病神、疱瘡神だった。その邪気を内裏の四隅、都の四隅で祓う祭があり、さらに都のある山城と丹波の国境で進入してくる疫病神を追い払うことになり、これが大江山の鬼退治になっていく。その大江山は、はじめは山城と丹波の境の大枝山で、後に丹波・丹後国境の大江山になったというのが髙橋説である。そして疫病神の認識の意識下には、天皇や国家の秩序を乱す謀反人、さらには異境の者への排除意識があり、それを担う勇者として、頼光が登場する」。