榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

内村鑑三、新渡戸稲造、朝河貫一が、米国留学で学んだこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2449)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年12月31日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2449)

ソシンロウバイ(写真1~4)が芳香を放っています。ポインセチア(写真5~9)のさまざまな色合いの苞、絨毯のようなハボタン(写真10~12)が目を惹きます。女房が隣家からもらったセンリョウ(写真13)が千両役者のように見得を切っています。

閑話休題、『明治日本はアメリカから何を学んだのか――米国留学生と<坂の上の雲>の時代』(小川原正道著、文春新書)で取り上げられている人物の中で、とりわけ興味深いのは、内村鑑三、新渡戸稲造、朝河貫一のケースです。

●内村鑑三の見たアメリカ――
「内村は『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』で記している。『キリスト教国と英語を話す国民について、私は特別の尊敬の念をもってみていました。・・・キリスト教国アメリカに対して、りっぱで敬虔で清教徒的であるとの考えを抱いていました』。その憧れを抱き、結婚に失敗したという傷を抱きつつ、経済的保証もないまま、いわば避難するようにして渡米した。・・・内村はアメリカ留学を打ち切り、1888年5月、帰国することになる。・・・アメリカで『回心』を遂げた内村は、第一高等中学校をはじめ多くの学校で教師として教え、あるいは新聞記者として働き、研究雑誌『東京独立雑誌』、『聖書之研究』の刊行を軸に、無教会派のキリスト者として『武士道的キリスト教』を唱道し、2つのJ――『Jesus』と『Japan』――のために、生涯を捧げていくことになる」。内村が恋愛結婚後、すぐに関係が破綻していたとは、初耳です。

●新渡戸稲造のアメリカ留学――
「新渡戸はアメリカに留学することを決意し、養父の賛成を得ることに成功する。8月4日付宮部宛て書簡で新渡戸は決意を示している。『ぼくは、東京を去って米国へ行くことになりました。充分な学費の用意もないまま行きます。いちかばちかやってみます。それはあまりに大胆すぎるかもしれないが、よく考えてみると、人生は結局のところ、思い切って冒険を試みる以外にないのです。ぼくは行くことに決心しました』。・・・在学中、クエーカー(フレンド派)と出会い、簡素で神霊を求める姿勢に感銘を受け、教会から足が遠のいていた新渡戸は、1886年12月、クエーカー教徒となった。・・・新渡戸は1887年5月、アメリカを発ってイギリス、オランダを経由し、ドイツに向かった。農政学研究のためである。・・・帰国後は札幌農学校の教授を皮切りに、台湾総督府技師、京都帝国大学教授、東京帝国大学教授などを経て、第一次世界大戦後に国際連盟が発足すると、事務次長に就任している。・・・新渡戸はアメリカでキリスト教、いわば『神の国』を再発見し、日本と西洋の橋渡し役を果たそうと努めることになったわけである」。新渡戸が英文で書いた『武士道』は、妻のメアリー・エルキントン(アメリカ人)や西洋の友人の質問に答えようと試みたものだと記されています。

●朝河貫一の日米開戦回避工作――
「朝河が、友人であるハーバード大学フォッグ美術館東洋部長のラングドン・ウォーナーに宛てた11月16日付の書簡に、金子宛書簡を同封したところ、2日後、ウォーナーはローズヴェルト大統領から昭和天皇に親書を送り、日米戦争の阻止を働きかけたらどうか、と提案する。朝河はこれに賛同して草案を起草、ウォーナーはワシントンDCでホワイトハウスや国務省、陸軍省に親書草案を提出すべく奔走した。朝河草案とは似て非なるものとなってはいたが、ローズヴェルト大統領は実際に昭和天皇に親書を送っている。これが送付されたのは12月7日午前(日本時間、以下同)、電報を受け取ったジョセフ・C・グルー駐日アメリカ大使が東郷茂徳外相に天皇への拝謁を求めたのが7日の深夜、東郷外相が天皇に親書を上奏して退出したのが8日午前3時15分で、真珠湾攻撃はその10分後にはじまった。朝河の一連の工作をどう評価すべきであろうか。この工作によって発出された大統領親書が、日本政府からアメリカ政府に対する開戦通告を遅延させてしまったとも指摘されており、松村正義氏は、朝河の取り組みを『書簡外交』『評論家外交』と厳しく評価している。一方、山内晴子氏は、この工作が、占領軍が『天皇制民主主義』を採用するにあたって大きな影響をあたえたとしている。その是非を問うことは本書のテーマではないが、日本人アメリカ留学生の系譜が、日米関係の破綻を防ぎきれなかったことはたしかであり、その意味で、日露戦争とは異なり、『個人』の与える影響力が格段に小さくなっていたことは否定できない。日米の絆をつなぐ糸は、ついに切れてしまった」。浅学にして、日米戦争阻止のために奔走した朝河貫一という人物がいたことを初めて知りました。