藤原秀衡の現状認識、静の人物像など――源義経を巡る興味深い論文集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2470)】
今や、我が家の庭の常連となったジョウビタキの雄(写真1~4)です。メジロ(写真5)、カワラヒワ(写真6、7)、ムクドリ(写真8~12)をカメラに収めました。
閑話休題、論文集『義経とその時代』(大三輪龍彦・関幸彦・福田豊彦編、山川出版社)で、とりわけ印象に強く残ったのは、下記の6点です。
●後白河法皇と義経の関係――
「俗にいわれるように、(後白河)法皇が(源)義経を利用して(源)頼朝に対抗させようとしたというのも誤りです。法皇にもその気はなかったし、頼朝と義経特集では格が違い、義経の配下に多数の武士が結集することなど期待できず、とても頼朝には対抗できません」(上横手雅敬)。
●藤原秀衡の現状認識――
「(藤原)秀衡の情勢判断の的確さは、義経に対してもなされた。治承4年10月ごろ、義経が頼朝のもとに馳せ参ずることを認め、藤原氏の重臣でもある佐藤継信・忠信兄弟をつきそわせたのである。おそらく、頼朝や関東の情勢は、この兄弟によって秀衡にもたらされたことであろう。同じように、兄頼朝と対立した義経を庇護することも秀衡にとっては必要なことであった。京都の情勢を認識できる秀衡の政治力からすれば、義経は奥州自立の核になりえたのである。秀衡にとって子息泰衡は、あるいは国衡も含めて、彼らは自立の核たりえないという判断があった。その背景に、奥羽に対して行使する藤原氏の権力・権限が脆弱であるという現状分析・現状認識があったのではないか」(岡田清一)。
●源義経の最期――
「文治5(1189)年閏4月30日、源義経は陸奥国平泉の衣河館で、22歳の妻と4歳の女子とともに自殺し、31歳の波乱の生涯をおえた」(久保田和彦)。
●源義経の腰越状――
「以上の背景を考えれば、この『腰越状』の出所は、まさに大江広元の手元に伝来してきたもので、大江氏の文倉に保管され、『吾妻鏡』編纂の史料としてのちに提供されたものと考えることができる。つまり、『腰越状』は義経から大江広元に出された『歎状』で、内容も以上の検討からかなりの信憑性をもつ文書であると結論できる」(伊藤一美)。
●源義経と平時忠の娘――
「平時忠の娘は、『吾妻鏡』には記されていないが、『尊卑分脈』が平時忠の娘を義経の妾としてあげていることから、一応実在の人物と考えられる。・・・『延慶本平家物語』は、これを文治元年5月ごろの出来事とするが、時忠と義経が接触するのは壇の浦の戦いのあとであろうから、事実に近いのではあるまいか。時忠の娘がこのときに22歳であったとすれば、長寛2(1164)年生まれとなる。義経よりは5歳年少、河越重頼の娘よりは4歳年長である。この時忠の娘は、少し年はとっていたが、みめかたちも美しく、気だても優しかったので、義経も愛おしく思い、別宅に住まわせて寵愛したという。しかし、義経の西海落ちは文治元年11月なので、その期間は半年にすぎなかった」(下山忍)。
●静の人物像――
「静は、たとえば『義経の愛に殉じた薄幸の舞姫』というような見方で語られることが多く、それは『義経記』に始まる静伝説に依拠したものである。静が義経を深く愛していたのは事実であろうが、そればかりではなく、強い意志のもとに毅然とした立ち居振舞いのできる女性であったと思われる。その後の静について、出家遁世、後追いの自害、奥州行きなどの可能性もまったくないとはいえないが、静は義経の妾であるとともに、なによりも当代随一の白拍子であった点に注目したい。相伝すべき芸があり、白拍子集団を統率する磯禅師の後継者としての重要な役割もあったはずである。静が鎌倉に送られたときに、磯禅師がその身を案じて共に鎌倉に下向し、安達清経に抗う静から赤子を取り上げることでその身を守ったのは、娘に対する母親の愛情からばかりではあるまい。京都に戻った静に傷心の日々が続いたことは想像にかたくない。愛しい義経を思いだし、その菩提をとむらう生活は続いたにちがいない。しかし、けっしてそれを他言することはなく、みずからの芸を磨き、一門の白拍子に伝えていったのではあるまいか。『吾妻鏡』などからみえる静の実像からは、そのような凛とした中世女性の姿が浮かんでくるのである」(下山忍)。