榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

そのSS将校は、なぜ、アームチェアに書類を隠したのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2508)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年2月28日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2508)

キィーコーキーと澄んだ声で囀りながら、私の名字に縁の深いエノキの実を啄むイカル(写真1~9)たちを撮影でき、今日はバード・ウォッチャー榎戸(エノキド)にとって嬉しい一日となりました。シロハラ(写真10)、カワラヒワ(写真11)をカメラに収めました。サンシュユ(写真12)が咲き始めました。我が家の庭の片隅で、クロッカス(写真13、14)が咲いています。

閑話休題、『SS将校のアームチェア』(ダニエル・リー著、庭田よう子訳、みすず書房)は、古いアームチェアの座面に縫い込まれていたナチ時代の書類の束が見つかったところから始まります。

誰が、何のために隠したのか、その謎を5年間に亘り追いかけたドキュメントです。

隠した人間は、書類の署名からナチの若き法務官、ローベルト・グリージンガーと分かったものの、彼はナチの高官ではないため、どういう人物で、どういう信条を持ち、どういう生活を送っていたのかは分かりません。著者が7カ国でグリージンガーの家族や関係者に粘り強くインタヴューを試みた結果、次々と真実が明らかになっていきます。

「グリージンガーの事例を長期間調査した結果、わたしが最終的に知った全貌は、裕福な家庭に生まれた気立ての良い少年が、法律を学んだあとナチ体制で官僚となり、昇進に野心を抱き、動物好きの一面をもちながら、人種イデオロギーに同調するという生涯だった」。

「ホテル・ジルバーでのグリージンガーの仕事は、ゲスターポの業務の全分野に及んでいた。・・・ゲスターポが共産党や社会民主党、労働組合以外に目を向けるようになったのは、それらの地方組織が壊滅してからのことだった。ユダヤ人をはじめ、同性愛者やフリーメーソン、シンティ・ロマ(当時はジプシーと呼ばれていた)などの、反社会分子とされた人々がその標的となった。グリージンガーがゲスターポに加わった1935年の夏は、この新たな局面と一致していた。彼がゲスターポに入った数週間後、ナチは悪名高いニュルンベルク人種法を可決した(1935年9月)。これは、ユダヤ人とは何かを定義し、ドイツの社会的・経済的・文化的生活からユダヤ人を排除することを目的とした一連の措置を法制化したものだった」。

「SS将校であり、ゲスターポの元職員であったグリージンガーは、子どもの頃から極端な民族至上主義的ナショナリズムに染まっていたので、ユダヤ人がドイツ人の敵であることは彼にとって言うまでもないことだった。・・・1941年の夏の時点で、グリージンガーがまだ殺人者ではなかったとしても、彼は大量殺人者とともに行動して経験を積んでいた」。

「グリージンガーが第三帝国の崩壊が迫っていることを察知していたら、裕福な義理の両親の住むリヒテンシュタインに残ることもできただろう。あるいは、ベルチュや経済労働省への忠誠心を貫いて自分はプラハに戻るにしても、家族をリヒテンシュタインに残すこともできただろう。だが、彼らは1944年の夏に一家そろってプラハへと戻ったのだ。1945年の春に事態が急変するまで、グリージンガーは、終焉が近いことを受け入れる心の準備ができていなかった」。

「収容所に入れられてから、グリージンガーは自らの過去から何とか距離を置こうとした。このような状況では、普通のナチであることが発覚すれば死刑判決は免れない。尋問では、自分はSSの隊員ではないと、グリージンガーは何とかして当局を納得させたのだろう。収容所に入っても、SSに所属していたことを隠し通せるとは限らず、発覚した場合、SS隊員は殴られ、殺されることもあった。ドイツの行政機関の取るに足らない人物になりすましたからといって、グリージンガーの身の安全が保証されたわけではなかった。決して安全とは言えなかった」。

「(グリージンガーの)死亡証明書が示すように、グリージンガーは感染症の犠牲になったのだろうか。それともヨッヘン(グリージンガーの甥)とイルメラ(ヨッヘンの妻)が信じているように、(チェコかロシアの兵士に)殺されたのだろうか」。いずれにしても、1945年10月、グリージンガーは38年の生涯を終えたのです。

ナチに関心を持っている者にとって、確かな読み応えのある一冊です。