読者は狩猟者だ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2569)】
ヒメアカタテハ(写真1)をカメラに収めました。キリ(写真3、4)、ベニバナトチノキ(写真5、6)、トチノキ(写真7)、ユリノキ(写真8~10)、ホオノキ(写真11~13)が咲いています。近所のIさん宅のイヌコリヤナギの園芸品種・ハクロニシキ(写真14、15)の葉が清涼感を醸し出しています。因みに、本日の歩数は13,711でした。
閑話休題、『読書とは何か――知を捕らえる15の技術』(三中信宏著、河出新書)の著者は、読書は狩猟だ、読者は狩猟者だと主張し、世にはびこる読書効率主義に反対を唱えています。
「読書とはつねに『部分から全体への推論』――『アプダクション』――である。本の読み手は、既読の部分を踏まえて未読である本全体に関する推理・推論をたえまなく問い続ける。その推理・推論の対象である『全体』とは、その著書から読み取れる著者の主張を解釈することだったり、ある著者が依拠する知識体系を包括的に理解することだったりするだろう」。
「お気軽に知識を得る道はまちがいなく『地獄』に通じている。本書はそういう世にはびこる『読書効率主義』とは正反対のベクトルを志向する。・・・本を手に取ってひもとくことにより、私たちは初めて新たな知識の世界に足を踏み入れることになる。冒頭から読み進むにつれて、読者である私たちはあれこれ考えをめぐらし始める。その内容をどれくらい理解できたか、著者は何を言おうとしているのか、背後にはどんな知識世界が広がっているのか。読書中に読み手が思いついたさまざまな推理・推論・仮説・感想は読み進むとともに支持されたり棄却されたりするだろう。最後まで読み終えて充実した達成感を満喫できたならアナタは幸せな読者だ。しかし、読了した後も疑問が未解決のまま残ってしまうかもしれない。そんなときでもアナタは落胆する必要はけっしてない。自分がまだ知らない世界、理解できない世界が世の中にたくさんあることは紛れもない真理だから。一読して理解しきれなかった本はおそらく次に読むべき本を連れてきてくれるだろう。友は友を呼び、本は本を呼ぶ。巨大な『本の山』からアナタの耳に『遠い呼び声』が聞こえてくるにちがいない」。
「獲物を追いかける『狩猟者』の攻撃的なイメージはひとり静かに本を読む営みにはふさわしくないのではないかという意見もきっとあるだろう。しかし、リラックスして心安らかに本をひもとくときでも、あるいは仕事や勉強のため必要に迫られて読書するときでも、いったん本に没入すれば私たちはまちがいなく言葉や文章を『狩って』いる。小説であれば登場人物がどのような言動をするのか、物語のプロットがどんな展開を見せてくれるのかを期待しながら煽られるようにページをめくるだろう。また、専門的な学術書であれば、ある分野の専門知の体系がどのように組み立てられているのかを思い描きながらゆっくり読み進むだろう。本を読んでいるときは、たとえ自分ではそうと気づかなくても、読者は『狩猟者』の眼差しになっている」。
「本との偶然の出会いは思いがけないところで不意に立ち現れる」。
「本を読めば書評を打つのは私の昔からの習慣だが、書評は単に本の内容を客観的にまとめるだけでは物足りない。せっかく評者が時間をかけて読書したのだから、評者ならではの『偏光板』を通して、この本はこうも読めるよという視点を提示できれば言うことなしだ」。
一読者として、一書評者として、強く共感を覚える一冊です。