榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

田辺聖子が、何事にも達者なおばはんであることが、よ~く分かりました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2682)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年8月20日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2682)

ミンミンゼミの雄(写真1)が我が家にやって来ました。ヘチマ(写真2~4)、カボチャ(写真5~7)が花と実を付けています。トマト(写真8~10)、トウガラシ‘プチファイヤー’(写真11)、ナツメ(写真12)、カキ(写真13)が実を付けています。サトイモ(写真14)が育っています。

閑話休題、田辺聖子の半生をモデルにしたNHK連続テレビ小説『芋たこなんきん』の再放送を楽しく見ていたら、『ああカモカのおっちゃん』(田辺聖子著、文藝春秋)を読みたくなってしまいました。『ああカモカのおっちゃん』を読んだら、15年間に亘り連載されたカモカ・シリーズから精選されたエッセイを収録した『田辺聖子全集(9)』(田辺聖子著、集英社)を読みたくなってしまいました。

本書を読み終えて感じるのは、『ああカモカのおっちゃん』のような艶笑エッセイだけでなく、いかにも田辺らしいエッセイも多く含まれているなということです。

例えば、「紫の上」は、こんなふうです。「しかしながらやはり、私は、『源氏物語』を読んでただ一つ、おッそろしくSUKEBEな個所だと思うところがある。紫の上を、源氏が手に入れるくだりである。周知のように、源氏は紫の上を童女の頃からひきとって、自分が思うがままの教育をほどこし、理想の女に仕立てあげた。そうしてそれを妻にする。なんとイヤラシイではないか。男のSUKEBE精神をこのくらいハッキリ証明してるものは、ほかにないではないか。・・・ああ、いやらしい。やっぱり、『源氏』はすごいポルノ小説だ。全篇、ここ一つでもっている。『源氏』を読むときは、ここだけ読めばいい、とはいわないが、ここを読みとばしたらソンするよ。女のくせに、紫式部という作者は、どうしてこんなにいやらしく書けるんだろう。男心のいやらしさを知ってるんだろう」。

「ところで、そういうふうに育てあげた理想の女が、変質してはなんにもならない。女はよく変質する。家庭という冷蔵庫の中にいれておいても、腐敗変質する。なぜか。子供をもつからである。子供を産んで育ててりゃ、いやが応でも女はイタミが早い。臭気が出てくる。コトワザにもいうではないか。女は臭し、されど母はなお臭し、こんなのではなかったかな。だからちゃんと紫式部は、理想の女、紫の上に子供を与えていない。紫の上は、石女(うまずめ)である。いつまでたっても変質せず、むかしのままに理想の女でいるのである。そこにも作者の周到な注意が見られる。男心のいやらしさをいつまでもそそるようなものを、女主人公は温存しており、それ故に源氏の君の愛を最後まで失わず、愛惜されて死ぬ。じつにうまい設定ではないか。もし紫の上に子供ができたら、源氏のいやらしいみだらごごろをさそった、かつての少女期のイメージは霧散してしまい、彼女は現実的な存在になってしまう。現実的な存在になって、なおかつ、みだらごころをさそう、という女は、たいへん、ありにくい。ないではないが、小説にしにくい。『源氏物語』のように一大通俗小説の中では、趣味派と実益派と、女を二つに分けなければ、やりにくい。たくさんの登場人物であるから、混乱する。紫の上などは『趣味派』の筆頭である」。

田辺が。『源氏物語』をこのように見ていたとは!

「夏休みの酒」では、「芋たこなんきん」の謂れが説明されています。「古来、『芋・たこ・なんきん・芝居』が女の好物といわれていた。しかしこの頃は美容上の心くばりからか、芋やなんきんを召し上らない女性が多い。ウチへあそびにくる若い女性も、おおむねそうである。芋、なんきん、豆類、めん類、御飯、そういうもの一切、オハシでちょいちょい、とおとりのけあそばす。なんという勿体ない・・・」。

連載の最後のエッセイ「夭折のいましめ」では、長生きのコツが説かれています。「『有吉佐和子さんかて、ずいぶん若くして亡くなられ、惜しいことです。あれも夭折』。『夭折の躾を、われわれ昭和ヒトケタ、大正フタケタの世代は受けているといえる』。『躾、という字は、身を美しく、と書きますが、若死にの躾だけはとうにもならぬ、長生きの躾、というのが要りまんなあ』。おっちゃんはしばし考え、『<ねばならぬを忘れること>――夭折の躾をうけた世代に捧げる、第一の注意。この、滅私奉公の世代は、また、<ねばならぬ>世代でもある。マラソンやジョギングをはじめると、<走らねばならぬ>と無理して走り、座骨神経痛、膝、足首をいためてしまう。売上げノルマがあると<売らねばならぬ>と夢中になる、これがいかん。<他人と比べぬこと>――ヨソの花が赤いのは、若いときだけにして、五十六十になってまでヨソの人間と比べて、やきもきせぬこと。ツツ一杯に背伸びしたところで知れとるものを、人と比較してキナキナと思い悩んだりする、あれは身心に快(よ)うない、やめなはれ』といったって、いや――、凡愚の身には、いくつになっても隣の花は赤くみえるのだ」。

「『そうか。(諸事諸物、みなこれ、神サンの)あずかりもんかァ』というわけで、私はひとしお、初夏の宵の酒がおいしかったのであります。これを要するに、長生きのコツ、夭折のいましめは、①ねばならぬを忘れ、②他人と比べず、③人生は神サンのあずかりものと知るべし――ということになりそうである。昭和ヒトケタ、大正フタケタの、殿方・ご婦人、なるべく長生きして、転変の浮世を見届け、かつは神サンが『返せ』というのを忘れはるほど、面白く充実した人生を持とうではありませんか」。

田辺が、何事にも達者なおばはんであることが、よ~く分かりました。