榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

著者の読書愛、読書会愛が溢れている一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2697)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年9月4日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2697)

ムラサキルエリア(ルエリア・ツベロサ。写真1)、ダリア(写真2、3)、オシロイバナ(写真4~9)、シュウカイドウ(写真10)が咲いています。クリ(写真11)の実が落ちています。‘Qなっつ’という品種の落花生(写真12)は、‘オオマサリ’ほど大きくないが、茹でて食べると美味しいです。

閑話休題、『読書会という幸福』(向井和美著、岩波新書)には、著者の読書愛、読書会愛が溢れています。

●サマセット・モーム愛について――
「モーム沼にハマると抜けだせなくなる。読みはじめたらやめられないし、一作読むと次の作品も読みたくなる。それほどまでにこの作者は巧妙なのである。読む者を誘うその手にからめとられてしまったら、いっそのこともうモーム沼にどっぷりつかってしまいたくなる」。何を隠そう、私もモーム沼に嵌った一人です。

「モームの小説はたしかにおもしろいが、『いかにも読者を喜ばせようという魂胆が見えてあざとい』という意見もあった。それに応えるかのように、『英国諜報員アシェンデン』の前書きで、モームはみずからの小説手法が確信犯的であることを明かしてみせる。小説は事実に似ていなければならない、と云う作家たちの書くものは陳腐であると斬って捨て、ほんの少しの事実から読者が楽しめる小説を生みだすことこそ作家の腕なのだ、と決意表明のように言っている。たしかに、この小説がエンタテインメント性の強い作品であることは間違いない」。ここまで言われては、未読の『英国諜報員アシェンデン』を手にせずに済ますわけにはいきません。

●カズオ・イシグロの『日の名残り』愛について――
「丸谷才一氏による解説には、納得しかねる部分があった。『スティーブンスが信じていた執事としての美徳とは、実は彼を恋い慕っていた女中頭の恋ごころもわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する』とあるが、いやいや、スティーブンスは彼女の恋心にじゅうぶん気づいていたはずだ。気づいていながら執事に徹し、知らぬふりをせねばならなかったからこその悲哀ではないだろうか」。丸谷才一よりも向井和美の言い分に分があると、私は考えます。それにしても、稀代の読書家・丸谷にいちゃもんをつけるとは、向井の度胸と実力は相当なものですね。

●『失われた時を求めて』愛について――
「(読書会で)今回は『花咲く乙女たちのかげにⅠ』の第1部『スワン夫人をめぐって』の半分くらいまでを読みました。・・・早くも予言されたスワンの死、かすかに告げられたアルベルチーヌの名。今後の展開に向けて、いたるところに伏線が張られており、先を読まずにはいられないほどに、わたしたちはもはやプルーストの迷宮深くに入りこんでしまったようです」。

「『見出された時Ⅱ』の半分までを読みました。久しぶりにサロンを訪れた私は、以前から知っていた社交界の人々のあまりの変わりように驚くのですが、最初はそれが老いによるものだと思わず、見事に仮装している、と感じたほどでした。このあたりの表現は秀逸だという感想もありました。遠目にはさほど老いていないと感じられた人たちでさえ、近づいてみると容貌の衰えは目を覆うばかりで、その醜さを克明に描きだすやりかたは、語り手独特の辛辣さです。容貌だけでなく、ある人たちは性格まで変わってしまい、怒りっぽい人がすっかり丸くなっていたりするのですが、それは、あくまでその人を怒りっぽいと捉えていた語り手の見かたにすぎなかったのかもしれません。そして、社交界での地位もすっかり変化していました。ヴェルデュラン夫人がいつのまにか再婚して、ゲルマント大公夫人に収まっていたのにはびっくり。最後になって、このあまりの急展開に、読者はちょっとついていけません。次回はもっとすごいことになりそうなのです」。

「今回は、『失われた時を求めて』の最終回、『見出された時Ⅱ』の最後までを読みました。・・・ここまで平面的に書かれてきたことが、最終巻では時間によってそのすべてが立体的になり、奥行きを持ったものになった、という意見がありました。この一巻のなかに、これまでのすべてが凝縮されているような印象もありました」。この意見に、大賛成です! 私は、マルセル・プルーストは、この最終巻が書きたくて、この長~~い作品を書いたという説を支持しているからです。そして、著者のこの読書会で、私も読んだ鈴木道彦訳の『失われた時を求めて』(集英社文庫、全13巻)がテクストとして採用されているのも、嬉しいことです。何と言っても、鈴木訳は最高ですから。