のんびり・ゆったり・ほどほどに、生きよう・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2764)】
東京・文京の小石川後楽園で、ゆったりとした時間を過ごすことができました。カワセミの雄(写真1~5)をカメラに収めました。
閑話休題、『日蓮を生きる』(ひろさちや著、佼成出版社)には、日蓮の61年の生涯が手際よく記されているが、著者のひろさちやは、日蓮50歳時の佐渡流罪の前後で、日蓮の思想が大きく変化したことに注目しています。すなわち、「佐前(さぜん)」では預言者(政治家)的であった日蓮が、「佐後(さご)」では「政治のことは、わしゃ知らん!」とばかりに仏教者に変わったというのです。
とりわけ興味深いのは、自分は法華経の行者だと言っていた日蓮から、何が学べるかという考察です。
「どうすればわれわれにそのような(=法華経に則った)生き方ができるでしょうか・・・? そこまで考えた時、わたしは日蓮が言っていることに気づきした。なにも無理に努力する必要はないのです。ただ、われわれは『法華経』を信じるだけでよいのです。『法華経』を信じることは、『法華経』は、われわれは仏子(ぶっし)だと言っています。だから、わたしが仏子だと信ずればよいのです。仏子だといっても、われわれは仏の赤ちゃんです。・・・けれども、勘違いしないでください。仏子の全員が金持ちになれるわけではありません。・・・金持ちが幸福とはかぎりませんが、仏子の全員が金持ちになれない。貧乏な人もいます。健康な人もいれば、病人もいます。だが、仏子の全員が幸福になれます。金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏なまま、健康な人は健康なまま、病人は病人のままで幸福になれるのです。それが諸法実相です。ともあれ、われわれは『法華経』を信じ、わたしたちは仏の子であることを信ずればよいのです。そして、――のんびり・ゆったり・ほどほどに――生きるようにすればよい。その生き方は、現在、われわれ日本人の大半が、――あくせく・いらいら・がつがつと――生きている、その生き方と正反対です。・・・つまり、『南無妙法蓮華経』と唱えることは、物事をあるがままに受け容れることです」。
日蓮の教えを信じるか否かは、私たち一人ひとりに委ねられています。