榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうと呼びかけた伊藤仁斎・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2922)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年4月19日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2922)

フジ(写真1~3)、レッドロビン(写真4)、ヒラドツツジ(写真5~7。5はオオムラサキという品種)、モチツツジ(写真8)、ベルギー・アザレア(写真9)が咲いています。ソシンロウバイ(写真10)が実を付けています。イヌコリヤナギの園芸品種・ハクロニシキ(写真11)の葉が清涼感を醸し出しています。

閑話休題、『伊藤仁斎――孔孟の真血脈を知る』(澤井恵一著、ミネルヴァ日本評伝選)のおかげで、私の頭の中で朧げだった伊藤仁斎の思想が鮮明になってきました。

「『大学は孔氏の遺書に非ざるの弁』の冒頭で仁斎が主張したのは、『孔孟の血脈を識る』ということであった。さらに孔子は堯舜以上に優れた聖人であること、さらに孟子は孔子の教えを学ぼうと決意し、その『宗(そう)』、すなわち『根幹にあたるもの』を得るに至っていたことを前提に、仁斎は『大学』が戦国時代に詩・書というテキストには習熟していたものの、『孔孟の血脈』を理解していない人々が作った作品に過ぎないと断定した。つまり広い意味での儒学の系譜に連なるにしても、孔子・孟子の正統からは逸脱していると宣言したのである」。

「仁斎は十ヵ条にわたって『大学』の記述が『孔孟の血脈』から外れていること、すなわち『論語』『孟子』における議論と相違することを指摘している。こうした具体的な論証を経たうえで仁斎は、この『血脈』を識らないがゆえに世の中は衰退してゆくことになり、ついには『邪説暴行』がふたたび行なわれることになったと断言する。古注を作成した漢代の儒学者も、新注を作成した朱熹などの近世の儒学者もこうした『道』の衰微に関しては共犯者であったと仁斎は強く批判する」。

「(『同志会筆記』では)これまでの『論語』『孟子』に関する注釈は、漢から晋では老荘に、宋・元以降は禅学に基づいていると批判したうえで、案外『蛮貊』すなわち未開の地で『語孟の正文』によって『孔孟の意思』を理解する『大聡明の人』が現われれば、これまでの注釈はすべて一掃されるだろうと書かれている。『大聡明の人』とは暗に自分のことを指しているとも受け取れる表現であるが、仁斎はそれほどまでに自分が発見した『論語』『孟子』に関する議論に自信を深めていたと推測される」。

「本来『論語』と『孟子』との関係性(真血脈)、すなわち真の儒学とは何かという理解はそれらのテキストとじっくりと向かいあって理解されるべきものであるが、そこまでの余裕のない人々のためにその関係性を理解するための『てびき』のようなものが必要とされる。そのために書かれたのが『語孟字義』であり、もともとは『論語古義』『孟子古義』の補助的な解説書として構想されていた」。

「元禄年間のはじめ、仁斎がちょうど六十代半ばを過ぎた時期に『古義学』は学問的方法論として確立された。仁斎は朱子学と陽明学との誤りを正してさきに進むことを模索したが、その結果は儒学がはじまった起点とも言うべき『孔孟の道』に戻ることにたどりついた。古代中国においていったんは確立された『孔孟の道』であったが、長い年月を経るうちにその内容は忘れさられてしまったので、それを明らかにするための方法論、すなわち『古義学』を仁斎は確立する必要があると考えたのである。この『古義学』の確立は仁斎の当初の目的であったことは間違いないにしても、それによって仁斎の思想的活動が終わったわけではない。孔子によって提唱され、さらに孟子によって継承された『孔孟の道』が世の中の人々にとって役立つものである以上は、その復活を目指した仁斎の学問も社会において実践されるべきものでなければならないからである。・・・『古義学』を確立したあと、(最晩年の)仁斎はこのような実践をめぐる課題にあらためて取り組むことになった」。

巻末の「伊藤仁斎略年譜」の元禄16(1703)年(仁斎77歳)に「荻生徂徠、仁斎宛に書翰を送るも返事を得られず」とあり、正徳4(1714)年(仁斎没後9年経過)に「徂徠『蘐園随筆』を出版し、そのなかで仁斎を批判する」とあります。徂徠好きの私には、いささか気に懸かる記載です。