榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ダンテの永遠の憧れの恋人ベアトリーチェは虚構だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3021)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年7月16日号】 情熱的読書人間のないしょ話(3021)

アオサギ(写真1、2)、カワラヒワ(写真3、4)、ウチワヤンマ(写真5)、ショウジョウトンボの雄(写真6)、コシアキトンボの雌(写真7、8)、ガのカラスヨトウ属の一種(写真9~12)、ヒグラシの抜け殻とニイニイゼミの抜け殻(写真13、左がヒグラシ)をカメラに収めました。トチノキ(写真14)が実を付けています。

閑話休題、ダンテとベアトリーチェのエピソードに関心のあった私は、かなり以前のことだが、イタリア・フィレンツェに出張で1週間ほど滞在した時に、ダンテがベアトリーチェを見初めたというサンタ・トリニタ橋を見に行き、二人の出会いを描いたヘンリー・ホリデイの複製画(写真15)を購入しました。この絵は、現在も書斎に飾られています。

ダンテやゲーテの恋愛観に影響されて恋愛至上主義者となった私は、今回、『ダンテ論――<神曲>と「個人」の出現』(原基晶著、青土社)を読んで、腰が抜けるほどの衝撃を受けました。

なぜならば、ダンテの『新生』や『神曲』に登場するベアトリーチェと実在したベアトリーチェとは全く異なった存在であること、従って、現実のダンテとベアトリーチェの間に恋愛関係は存在しなかったことが明らかにされているからです。

さらに、最高の文学作品とされている『神曲』、そして、その著者である詩聖ダンテ・アリギエリの偶像破壊が精緻に展開されているではありませんか。

著者の主張が実証的で説得力があるだけに、私の痛手は大きいのです。

「『新生』は彼(ダンテ)の永遠の恋人であるベアトリーチェを歌ったものであり、彼は9歳の時にはじめて彼女に出会い、18歳の時に決定的な邂逅を果たして恋に落ちたと作品中では語っている。しかし現在この恋愛は虚構であったことが分かっている」。「歴史的存在のベアトリーチェと作品内のベアトリーチェとの乖離は決定的となった」。

「現在では、実際には、先行してダンテによるいくつもの恋愛詩が存在し、それらの詩によってすでに1290年頃には詩人として名を成していたダンテに対し、ベアトリーチェの兄であるマネッティ・ポルティナーリからの依頼があって、ダンテはさしたる交渉があったわけではないが、友人の亡き妹のために詩を書くことになったとされる。・・・結論として、半自伝的とされてきた『新生』は実は文学的創作物でしかなく、ゆえに作品で語られる、『恋をすることによって真に有徳』となったダンテの恋による認識力の拡張を現実の人間=ダンテに求めることは不可能となった。『新生』は、フィレンツェでよく知られた名家出身の女性が若くして死去したさいに、彼女を記念するために書かれた。ダンテは、(神の)救済の訪れを描くために、その女性のベアトリーチェという名前と彼女の死という出来事を現実世界との接点にしながら執筆し、当時のダンテの詩兄とも言えるグイド・カヴァルカンティに献呈することとなった」。

「『新生』においては、少なくともベアトリーチェを歴史的に実在した、有力な銀行家フォルコ・ポルティナーリの娘ビーチェと同一視し、その中で語られている内容を全て、現実にあったことだとする立場は崩れ去ってしまった。その『新生』の末尾で将来における作品構想としてベアトリーチェとともに言及される『神曲』の場合、これと同種の問題は、『神曲』をダンテが実際に見たヴィジョンであるとした説が否定されたことで決着がついている」。

「『神曲』の主人公『私』は、現実のダンテの特徴を残しつつも、実際のダンテとは切り離して考察すべきであることが確認された。このことと、叙事詩の主人公ダンテには、その時代の人類史を背負えるように預言者としての性格が与えられているという事実をもとに、作品の理解を目指すべきであることが明らかになった」。

私の、このショックはどうしたら癒やされるのだろうか!