フランツ・カフカは、読み手を困惑させることに無上の喜びを感じるトリックスターだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3025)】
朝早くから、我が家の頭上でカワラヒワ(写真1~4)が鳴き続けています。どうも、若鳥が親を求めて鳴いているようです。キュウリ(写真5)が花と実を、ホオズキ(写真6)、カキ(写真7)が実を付けています。
閑話休題、『城』(フランツ・カフカ著、原田義人訳、角川文庫)は、フランツ・カフカの未完に終わった長篇小説です。
主人公Kは、冬の晩遅く、ある村に辿り着きます。この村の領主で城に住む伯爵から土地測量技師として招かれてやって来たのに、村人は余所者のKには城に通じる道を教えてくれません。確かに城は存在するのに、Kはどうしてもそこに至ることができません。城に入る手蔓を得ようと、あの手この手を繰り出すが、一向に道は開けません。城の官房長の恋人という酒場の女給と同棲してまで城に執着するが、状態は少しも改善されません。その曖昧模糊とした状況に翻弄され困惑するKの心理描写が延々と綴られていきます。
謎が多く、難解とされるカフカの作品は、これまで世界中の多くの識者によって論じられてきました。城とは近づき難い神の象徴だ、精力的で現実的な商人である父に対する抵抗の書だ、書全体がユダヤ人としての疎外感・不安感に包まれている、そして、これぞこの世の不条理を描いた作品だ――等々、さまざまな解釈が提出されてきました。
ところが、もどかしさを感じながら漸く読み終わった私の印象は、これらとは異なります。カフカは、読み手を困惑させることに無上の喜びを感じるトリックスターだというのが、私の乱暴な結論です。
本作品中に、<あのように無益に立ちつづけていること、毎日ただ待ちつづけて、しかもいつもそれをくり返し、変るという見込みも全然ないことは、人間を疲れ切らせ、懐疑的にし、ついにはああやって絶望して立ちつづけること以外には何もできなくしてしまいます>、<ビュルゲルのほうは、まったく自分の思考の筋道に没頭していて、Kを少しばかりまどわすことにちょうど今成功したのだといわんばかりに微笑するのだった>――という表現を見つけました。
<要するに私は、読者である我々を大いに刺激するような書物だけを読むべきだと思うのだ。我々の読んでいる本が、頭をぶん殴られた時のように我々を揺り動かし目覚めさせるものでないとしたら、一体全体、何でそんなものをわざわざ読む必要があるというのか? 君が言うように、我々を幸福にしてくれるからというのか? おい君、本などなくても我々は同じように幸福なのさ。我々を幸福にしてくれる本なんて、困った時に自分たちで書けばよい。本当に必要なのは、ものすごく大変な痛々しいまでの不幸、自分以上に愛している人物の死のように我々を打ちのめす本、人間の住んでいる場所から遠く離れた森へ追放されて自殺する時のようなそんな気持ちを抱かせる本なのだ。書物とは、我々の内にある凍った海原を突き刺す斧でなければならないのだ、そう僕は信じている>。1904年、友人オスカー・ポラックに宛てた書簡の中に、カフカはこのように記しています。
<(現在のわたしは)自分の才能の命ずるままに、不幸とはなんのつながりもないあれこれの意匠をこらしながら、あるいは虚心坦懐に、あるいは逆説を弄して、さらにはまた、観念連合による完璧な交響楽的構成を意図して、自由自在にこのような主題について即興的なでっち上げをすることができるようになっているのである>。1917年の日記に、カフカ自身がこう書きつけています。
<カフカは、とくに意図して自分の思想を表現しようとする時には、かならずひとつひとつの言葉に罠をしかけたからである(つまり彼は、さまざまの危険な構築をくみ上げたのだ。すなわち、そこでは、それぞれの言葉が、論理的に配置されていず、一語が一語の上へとつみ重ねられているので、まるでただひとを驚かし、当惑させることだけをねらっているかのように、また、作者自身だけを相手に話をしているかのように、まったく飽くこともしらずに、意想外から錯乱へと縦横にとびまわっているのである)>。ジョルジュ・バタイユは、カフカをこう評しています。
カフカの読者を戸惑わせるという目的が、目論見どおりに実現していることは、カフカの作品の意図を探ろうという論争が今なお繰り広げられていることに照らして明らかでしょう。