関東大震災時の朝鮮人大量虐殺の背景とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3056)】
早朝、我が家の庭師(女房)から、紫色のに続いて桃色のアサガオ(写真1、2)も咲いたわよ、と報告あり。コムラサキ(写真3)、シロミノコムラサキ(写真4)が実を付けています。
閑話休題、『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相――地域から読み解く』(関原正裕著、新日本出版社)によって、関東大震災時の朝鮮人大量虐殺が東京だけでなく、埼玉でも起きていたことを知りました。
「1923年9月1日に発生した関東大震災のなかで、『朝鮮人が火を付けた、井戸に毒を入れた』、『不逞鮮人襲来』などという全く事実無根のデマが流され、数千人もの朝鮮人と700人以上の中国人、日本人社会主義者が軍隊、警察、自警団によって殺されるという事件が起こった」。
「震災直後の1923年9月4日午前3時頃、埼玉県南部にあたる北足立郡片柳村染谷(旧大宮市、現さいたま市見沼区染谷)に迷い込み、地元の自警団と遭遇した一人の朝鮮人青年姜大興(当時24歳)が自警団によって虐殺されるという事件が起こった。・・・まさに『虐殺』という表現が相応しい殺害の態様であった。何の落ち度もない青年が、朝鮮人であるというだけで『不逞鮮人』襲来との嫌疑をかけられ、虐殺されるという誠に理不尽かつ残忍な事件であった」。
「(9月)4日の夕方熊谷町に到着し、その夜から明け方にかけ町内で46~47人、全体で確認できた最低数で57人、証言も含めれば68~79人にのぼる朝鮮人が自警団や群衆によって虐殺されている。・・・神保原村で(トラック)2台が止められ乗っていた朝鮮人が自警団は群衆によって虐殺される。犠牲者は42人であった。・・・(本庄署に町内や県南部から連れてこられた朝鮮人に)群衆が襲いかかり、一晩かけて虐殺が行われ、確認できた最低数で88人、証言を含めれば101~102人にものぼる朝鮮人がここで虐殺されている。・・・隣村の用土村の自警団は5日夜に寄居警察署に殺到し、留置場から具學永を引きずり出して虐殺している」。
「なぜ朝鮮人が『暴動を起こす』『井戸に毒を入れた』などというデマが流され、なぜ日本人はそんなデマを信じ、人を殺害するまでの行動を取ったのだろう。このことを考えただけでも、朝鮮人への差別の問題、日本が朝鮮を植民地支配していた歴史と向き合わざるをえなくなるだろう」。
「内務省警保局長は朝鮮人を取り締まることを指示する電文を全国に送り、埼玉県では内務部長が『不逞鮮人暴動に関する件』なる『移牒』を県下に発するなど、国家が事件を誘発した重大な要因をつくっていたことは間違いない」。
「1920年には(第一次世界大戦の)戦後恐慌によって日本経済は不況期に入る。しかし、21年、22年、23年と在日朝鮮人人口はかなり増加している。この背景は、朝鮮人労働者が日本人よりも低賃金で使えるため、企業が未熟練労働者を日本人から朝鮮人に替えて不況を乗り切ろうとしたからであった。このことにより、底辺の日本人未熟練労働者と朝鮮人労働者が労働市場において競争相手となり、結果的に朝鮮人への反感を高めることになったのである。関東大震災当時、日本人民衆は朝鮮人を公然と侮辱し、差別し、見下していた。一方で、三・一独立運動以後には『不逞鮮人』と呼ばれたテロリストへの『恐怖心』も浸透していた。1920年代初頭、このような日本社会に急速に大量の朝鮮人が仕事を求めてやってきたのであった。そこへ首都東京を襲った関東大震災が起こったのである」。この鋭い指摘により、関東大震災時の朝鮮人大量虐殺の背景を深く理解することができました。
「関東大震災時に、朝鮮人、中国人、日本人社会主義者が軍隊、警察、自警団によって虐殺されたが、大杉栄らを殺害した『甘粕事件』を除けば軍隊、警察は一切裁かれていない。自警団による朝鮮人虐殺も、加害者が検挙され裁判が行われたのは全体の一部に過ぎない」。
差別の問題を考えようとするとき、見逃せない一冊です。