榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

被害者も加害者も常軌を逸した世界に放り込まれるのが戦争だ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(918)】

【amazon 『忘却の引揚げ史』 カスタマーレビュー 2017年10月22日】 情熱的読書人間のないしょ話(918)

今朝の衆院選挙の投票所は、強い雨脚にも拘わらず、長蛇の列ができていました。先日、見かけたシュウメイギクの花の白さが瞼に残っています。

閑話休題、「二日市保養所」という言葉を、『忘却の引揚げ史――泉靖一と二日市保養所』(下川正晴著、弦書房)で初めて知りました。

「福岡県筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)にあった二日市保養所は、温泉地にできた療養所ではない。敗戦後、満州や朝鮮北部などでソ連兵らによって性暴行被害を受けた女性たちの中絶手と治療が行われた場所だ。その数は400~500件だった、と元担当医師が証言している。1946(昭和21)年3月25日、厚生省引揚援護庁と在外同胞援護会(外務省の外郭団体)救療部によって開設され、翌年秋までに閉鎖された」。

「患者は主に満州、中国、北朝鮮からの引揚げ女子で、性暴行を受けて性病に感染したり、妊娠した女性たちだ。主に博多港からトラックで、一部は他の引揚げ地から来た。当時は優生保護法がなく、政府の許可が得られなかったが、在外同胞援助会救療部は妊娠中絶を断行した」。

「『人身御供』の事実があったことは、引揚者からの聞き取り調書『問診日誌』をみても明らかだ。上坪(隆)は言う。『日本人が集団を組んで引揚げる途中、『集団の安全のために』『みんなのために』というそれだけの理由で、その責任者の『命令』によって女性を外国兵や現地人にさしだし、獣欲に任せるケースが少なくなかった』」。ギ・ド・モーパッサンの『脂肪の塊』に通じる残酷極まる惨状です。

「彼女(山本高子)は市民団体『引揚げ港・博多を考える会』が発行した証言集に、逃避行の模様を詳細に書いた。『街には不穏な空気が流れ、時折、銃声が聞こえ、日本人の家を襲う人びとの声がしました。夜になると、ロシア兵が女性を求めて、戸を叩きます』」。

「問診日誌、8月6日。ソ連軍が攻めて来て、コメひとつぶ着替ひとつ持たず、逃げ込みました。そこで他の所から逃げて来た女と子どもと集団生活をしました。ここではソ連軍からアワの配給を受けていましたが、夜になると、3名くらいずつ懐中円筒やロウソクを持って回り、昼間に眼をつけておいた女を探し出し、一晩に10人ぐらいの女を連れて行き、暴行を加え、朝になると帰っておりました」。

「山口市の小林茂は北朝鮮から佐世保に引揚げた。当時11歳。父を戦地に送り出し、母と子どもたちだけだった。ソ連軍の占領。日本人は長屋に押し込められ、1年間、毎日のようにやってきたソ連兵は『マダムダワイ(女を出せ)』と大声で喚き発砲した。小林の証言。「抵抗する者は撃ち殺すんです。全部裸にされるんです。犬がさかっているような感じのね。男女間のセックスをしてるんです。次の人が待っとる。それで強姦しよるんです。それで、こん畜生、体を開かんなったらボンッと撃つんです、目の前で。それを引きずり出して次の・・・。(昼の日中でも?)そうです。雪の中でも、道路の中でもそうです」。

「ほっとした天内(みどり)が一人で校庭に出ると、どこからか朝鮮語の歌が聞こえてきた。校舎の陰から現れたのは、4、5人の少年兵だった。彼らが担いだ棒に、16歳ぐらいの少女が裸で逆さまにつるされていた。直感的に日本人だと思った。かすかなうめき声をあげ、長い髪が落ち葉の上を引きずられていく。『見てはいけないものを見た』。母には話せなかった」。「(収容所では)夜中になると、ソ連兵が現れ『マダムダワイ』と騒いだ。そのたびに、若い女性が叫び声を上げながら、連れて行かれた。翌朝、顔見知りの女性がいなくなっていたこともあった」。

「若槻(泰雄)は『ソ連兵の日本婦人への暴行は、すさまじいの一語に尽きる』と要約し、日満パルプ(満州敦化)の社宅では『170人の婦女子全員を監禁し、夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、この際23人の女性は一斉に青酸カリによって自殺した』と記述。若槻が引用した文藝春秋編『されど、わが<満州>』は、医師の話では『10名に2、3名は舌を噛んで死んでいる』という新京(現在の瀋陽)での目撃談を載せている」。

一方、二日市保養所で献身的な活動を行った人々がいました。「泉(靖一)自身が戦後博多での活動について、自伝『遥かな山やま』で書いたのは、わずか4ページである。『私は、毎日毎日、埠頭で上陸してくる病人をかついだり、孤児の手をひいたり、栄養失調児のための収容所や、不法(=強姦)妊産婦の保養所の建設におおわらわだった。聖福寺の界隈は駅のすぐそばで、そのころ闇市にかこまれていた。喧嘩や盗難は日常の茶飯事であったが、人ごみのなかには活気があった。私は、雑踏のなかで、山も学問も忘れてどろどろになって働いた』。泉の寡黙で一貫した戦後体験談は、私たちの胸を打つ」。

被害者も加害者も常軌を逸した地獄のような世界に放り込まれるのが戦争です。昨今の「戦争ができる国」への動きは何としても阻止せねばと痛感しました。