美術の達人が案内役の、世界の美術館巡り・・・【山椒読書論(483)】
『美との対話――私の空想美術館』(粟津則雄著、生活の友社)には、著者が心惹かれた94点の絵画、彫刻、建築などを巡るエッセイが収められている。
取り上げられている作品はいずれも逸品だが、それらに対する著者の感性と表現力がまた素晴らしい。その瑞々しさが堪らない。
例えば、レンブラントの「ペテロの否認」は、こんなふうである。「その後、アムステルダムの国立美術館で、まさしくこの挿話を主題としたレンブラントの『ペテロの否認』を見たとき、単に視覚だけではなく、私という存在そのものが、根底から揺り動かされるような思いをした。この作品は、私がおさない頃から親しんできた挿話をただそれらしく描いたような代物ではまったくなかった。そこでは、レンブラント独特のおそるべき写実力と精妙な構図が、きわまるところ、画中の人物それぞれの外見だけではなく、その内部の奥深いところまで、残酷なほどあざやかに照らし出していると言っていい。この作品で描かれているのは、大祭司の屋敷の中庭で、婢女(はしため)にこの人はイエスの弟子だと言われたペテロが、あわててそれを否認しようとしている、まさしくその一瞬である」。
ミケランジェロの「ピエタ」については、「私は、あるいは近付き、あるいは離れ、あるいは右に寄り、あるいは左に寄ったが、そのたびに、聖母も、イエスも、彼らのかかわりようも、あるいは微妙に、あるいははっきりと表情を変える。私は、自分の動きに応じて彼らもまた動き始めるような感覚を味わったが、これは彼らの存在が、あいまいな、不安定なものになるということではない。このような変容、このような動きのいっさいが、大理石のすばらしい色と質感に支えられながら、しっかりと内側から充実した彼らの存在に収斂し、その凝集力をさらにいっそう強化するのである。私は、死せるイエスを膝にのせ、眼を伏せて無量の想いをもって祈る聖母を眺め、母に身を委ねるイエスを眺めて、長い時を過した。眺め続けるうちに、彼らは、その堅固な存在感そのものを通して、内側から輝き出すようだった」と記されているは。私も、この「ピエタ」の前で長時間、立ち尽くしたことを懐かしく思い出した。
ボンのライン州立美術館に収められている、14世紀中頃の木彫りの「ピエタ」は、トーマス・マンの『魔の山』に登場することで知られている。「ここに見られる聖母は、われわれが思い描く聖母像とは似ても似つかぬものだ。ここには、優美さもやさしさも、そのかけらもない。悲しみはもちろんあるだろうが、それは、日々の労働と心労に疲れ果て、眉間にけわしいたてじわを寄せた暗い表情と融け合ったかたちで立ち現われている。そのきびしいまなざしも、右手でキリストを抱き、左手を膝においたそのポーズも、悲しみと言うよりも絶望のあらわれと言った方がいいようなところがある。一方、抱かれているキリストにしても、聖性とか悲愴美とかいったものはいささかも感じられない。あまり血を流し過ぎたせいかどうか、その遺骸はコチコチに乾いていて、遺骸よりもミイラに似ている」。写真で見ただけでも、この「ピエタ」には妙に惹きつけられてしまう。
ドーミエの「洗濯女」という暗く陰った母子の絵も、不思議な魅力を放っている。「陽がかたむき、仕事を終えた母親が、左手に洗濯物をかかえ、右手で子供の手を引いて、河岸の階段をのぼってくる姿が描かれているが、動作の一瞬をとらえたものであるにもかかわらず、ここにはおよそあいまいな不安定なところはない。右手に洗濯の道具らしい水かきのようなものを握りしめた子供が、母親に左手を引かれて、彼には少し高過ぎる階段を必死になってのぼっているが、そういう子供と母親との対照と結びつきは、何とも無類のものだ」。仕事をする女性というのは、何でこんなに魅力的なんだろう。
粟津則雄の解説に助けられながら、本書で世界の美術館巡りをするのは、最高に贅沢で、至福の時間である。