榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

大乗仏教嫌いの私が、大乗仏教の禅に親しみを感じるのはなぜだろう・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3243)】

【読書の森 2024年3月3日号】 情熱的読書人間のないしょ話(3243)

越冬昆虫観察会に参加しました。カブトムシの幼虫(写真1、2)、クワガタムシ科あるいはコガネムシ科の一種の幼虫(写真3、4)、コクワガタの雄(写真5)、雌(写真6)、オオクチキムシ(写真7)、甲虫の一種の幼虫(写真8)、オオスズメバチ(写真9)、コガタスズメバチ(写真10)、キイロスズメバチの巣(写真11)、多数の微小な赤っぽいアリ科の一種(写真12)、ヤマナメクジ(写真13)、ニホンノウサギの糞(写真14)を観察することができました。なお、このオオスズメバチとコガタスズメバチは次期女王となる個体です。

閑話休題、私はブッダ自身が説いた原始仏教が好きで、大乗仏教は、はっきり言って、嫌いです。しかし、大乗仏教なのに禅には親しみを感じてきました。それはなぜなのか不思議に思ってきたが、今回、『禅と念仏』(平岡聡著、角川新書)を読んで、その謎が解けました。

「仏教の開祖ブッダは坐禅によって悟りを開いたので、禅の歴史はブッダの時代にまで遡る。一方の念仏の発生母胎になった浄土教の誕生は大乗仏教時代であるから、禅に遅れること4百年ということになる」。

「坐禅」を特色とする禅仏教が目指すゴールは「現世における個人の悟り」であり、「念仏」を特色とする念仏仏教のゴールは「来世における大衆の救い」だというのです。

そして、禅仏教は為政者の行動指針(生き方)として機能するのに対し、念仏仏教は庶民が集団となって為政者に対抗する力として機能するというのです。

坐禅と念仏を考える上で重要な人物は法然だという指摘には、目から鱗が落ちました。「坐禅も念仏も本来は精神の集中に関わる行であり、双修されてきたことはすでに確認したが、両者が決定的に袂を分かったのは、法然の仏教が影響している。『坐禅も念仏も』という仏教は、法然の出現により『坐禅か念仏か』の選択を迫られ、以来、両者は別々の道を歩むことになった。つまり、法然は、本来『観想念仏』であった念仏を、善導の解釈に従って『称名念仏』に変更し、念仏の意業的側面を一切捨象して、念仏を口業に純化させたのである」。この法然仏教は、親鸞の「信心」、道元の「只管打座(ひたすら坐禅すること)」、日蓮の「唱題(題目を唱えること)」に受け継がれていくのです。