来世の存在を信じなかった平知盛が、皮肉にも、後世の作者たちによって「物語」の中で生き返らされた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3484)】
キンケハラナガツチバチ(写真1)、イボバッタ(写真2、3)、ハラビロカマキリ(写真4、5)をカメラに収めました。モッコク(写真6)、カラスウリ(写真7、8)が実を付けています。ショウキズイセン(別名:ショウキラン、学名:リコリス・トラワビ。写真9)、タマスダレ(写真10)が咲いています。我が家にシロホシヒメグモ(写真11)がやって来ました。
閑話休題、『物語の生まれる場所へ――歌舞伎の源流を旅する』(木ノ下裕一著、淡交社)は、「物語の背景には、常に、その物語を生じさせるだけの土壌や風土がある」という考えに基づき書かれています。
個人的に、とりわけ興味深いのは、平知盛の「物語」についての件(くだり)です。
優柔不断な兄・平宗盛に代わり、壇ノ浦合戦まで平家軍の指揮を執った知盛は、「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」とだけ言い、後生を願うための「南無」の一言すらなく海に飛び込みました。
知盛には、あの世も浄土も地獄もなく、ただ「今生の世界」のみがあったのに、皮肉なことに、後世の作者たちは知盛を主人公に据えて、新たな物語を作り出していったというのです。
謡曲『碇潜』は一門を弔うために早鞆の浦(壇ノ浦)を訪れた平家ゆかりの僧が知盛の幽霊と出会う物語。謡曲『船弁慶』も、やはり知盛が亡霊となって現れ、敵将・源義経に再び遅いかかる物語。中でも、その筋立てが大胆なのは、時代は下って江戸中期に並木千柳(宗輔)らによって書かれた『義経千本桜』です。『義経記』などに拠る義経都落ち伝説を土台としながらも、源平の争乱によって死んだはずの平維盛、平教経、知盛の平家三武将が実は生き延びていたという設定で物語は進みます。本作の劇世界では源平の争乱は屋島の合戦で終結したことになっており、つまりは、もし壇ノ浦の戦いがなく、死んだはずの知盛たちが生き延びていたらという一種の歴史if物なのです。
作者の並木たちは、非業の最期を遂げた安徳帝や知盛や義経らの魂に対して、この『義経千本桜』という物語を捧げることで、物語の力でもって、救おうとしたのではないか――と、著者は推察しています。
知盛という人物に、俄然、興味が湧いてきました。これも、物語の力かもしれませんね。