私たちが日本史の授業で習った「任那日本府」の真実が明らかに・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3521)】
6日間、通った甲斐があり、タヒバリ(写真1、2)を撮影することができました。コガモの雄と雌(写真3)、雄(写真4)、雌(写真5)、ナツアカネ(写真6)をカメラに収めました。あちこちで、サザンカ(写真7~11)が咲いています。我が家の餌台にシジュウカラ(写真12)がやって来ました。女房が、友人が庭で育てた巨大なウンシュウミカン(写真13の奥の2個)をもらってきました。甘さ控えめだが美味でした。
閑話休題、私たちは日本史の授業で、古代には任那日本府を通じて日本が朝鮮半島南部を支配下に置いていたと教えられたが、『伽耶/任那――古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(仁藤敦史著、中公新書)によると、どうも史実はそうではなかったようです。
伽耶(かや)/任那(みまな)は、3~6世紀に存在した朝鮮半島南部の小国群を指します。『日本書紀』では「任那」と記され、韓国では「伽耶」と表記されます。
●任那日本府
任那日本府は、かつては、ヤマト王権の出先機関とされてきたが、実態は、百済による伽耶諸国への侵略に抵抗する勢力の総称として表現されたものと考えられる。倭からの使者、倭系の在地豪族集団を合わせたもので、強固な組織は存在しなかった。すなわち、倭系伽耶人を中心とした、百済にとって望ましくない勢力だが、倭からは独立した存在であった。よって、倭による朝鮮半島南部の恒常的な領土的支配はなかったといえる。
●広開土王碑
広開土王碑は金石文であるため『日本書紀』よりも同時代史料として尊重されてきた。しかし、この碑を建てた高句麗の長寿王は、父・広開土王が強大な敵・倭に勝利したと誇張表現していると考えられる。従って、碑文から倭による恒常的な領域支配を読み取ることは困難である。
●栄山江流域の前方後円墳
近年、朝鮮半島南部で倭独自の前方後円墳の発掘が相次ぎ、ヤマト王権の支配が及んでいたとする倭人勢力説が台頭したが、これらは倭から百済に渡り土着した者たちの子孫で日本府の主要な構成員となった倭系百済官僚たちの墳墓と考えられる。故に、倭の直接的な恒常的支配の物証とはならない。
目から鱗が落ちる一冊です。