18歳で、22歳年上のナポレオンと政略結婚させられたハプスブルク家の皇女マリー・ルイーゼとは、どういう女性だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3794)】
東京・足立の舎人公園で、一時、雨に見舞われながら粘った甲斐があり、幸運にも、先島諸島を棲息域とするムラサキサギの幼鳥をカメラに収めることができました。2時間経過後に漸くアシ(ヨシ)原に姿を現し、樹上に移動し、その後、池の畔に降り立ったムラサキサギをじっくり観察することができました。バード・ウォッチャー榎戸にとって、最高の一日となりました! 因みに、本日の歩数は13,216でした。
閑話休題、手許の『詳説 世界史B』(山川出版社)の「(ナポレオンは)オーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して家門の地位を高めるなど(1810年)、その勢力は絶頂に達した」という素っ気ない記載からも分かるように、マリー・ルイーゼの知名度は決して高くありません。
●不倶戴天の敵・ナポレオンと政略結婚させられたマリー・ルイーゼは、その時、どんな気持ちだったのか。
「夜中、大きな南京虫をつかまえたときなどは、わざわざ弟を起こして『ナポレオン』と声をあげて石でつぶした。わが居城シェーンブルン宮殿を占領し、わが物顔に振舞い、歩き回っているナポレオンとフランス軍が憎らしくて、許せなかった」。
ナポレオンは40歳で、165cmと小柄。一方のマリー・ルイーゼは、飛びぬけた美人ではないが、18歳、176cmと大柄でした。
●ナポレオンとの4年に亘った結婚生活は、うまくいったのか。
マリー・ルイーゼから父・オーストリア皇帝フランツ1世への手紙。<コンピエーニュの夜以来、私はいつも彼と一緒にいます。彼は私を心から愛してくれますし、私は彼に本当に感謝しております。私も彼の愛に応えています。彼に近づけば近づくほど彼は魅力的になります>。
●ナポレオンの没落に際して、マリー・ルイーゼはどう考え、どう行動したのか。
結局、マリー・ルイーゼは、ナポレオンが流されたエルバ島にもセント・ヘレナ島にも付いて行きませんでした。
●マリー・ルイーゼがナポレオンとの間に儲けた息子は、どういう運命を歩んだのか。
ローマ王→ナポレオン2世→パルマ小公子→フランツ→ライヒシュタット大公(公爵)と目まぐるしく呼称が変わった息子は、父からは容貌と知的能力を、母からは高身長を受け継いだ青年に成長するが・・・。
●ナポレオン没落後、パルマ公国の女王となったマリー・ルイーゼは、どういう政治を行ったのか。
パルマ市発行の観光パンフレット。<マリー・ルイーゼはよき女王として、いまなお市民の記憶の中に生きている>。
●生涯に3度結婚したマリー・ルイーゼは、どういう性格の持ち主だったのか。
『マリー・ルイーゼ――ナポレオンの皇妃からパルマ公国女王へ』(塚本哲也著、文藝春秋)のおかげで、これらの疑問がものの見事に氷解しました。史実を踏まえた本書は、確かな読み応えがあります。
マリー・ルイーゼ(1791~1847年)は、オーストリア皇帝フランツ2世の娘で、ナポレオン・ボナパルトの2番目の妻。1810年に政略結婚し、ナポレオンとの間に息子ナポレオン2世をもうけた。ナポレオン失脚後はフランスを離れ、故国オーストリアへ戻る。その後はパルマ公国の統治者として政治を行い、穏健で安定した統治を続けた――書評を書き上げてから、ChatGPT4oに「マリー・ルイーゼとは、どういう人物だったのか、280字でまとめてください」と依頼したら、このような答えが1~2秒で返ってきました。父は「オーストリア皇帝フランツ2世」とあるが、彼は神聖ローマ皇帝・フランツ2世(在位1792年7月7日~1806年8月6日)からオーストリア皇帝・フランツ1世(在位1804年8月11日~1835年3月2日)となったので、表記がいささか混乱しているようです。