榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ルイ・ボナパルトという卑小な人物が、なぜ独裁者になれたのか・・・【山椒読書論(433)】

【amazon 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』 カスタマーレビュー 2014年4月4日】 山椒読書論(433)

ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版』(カール・マルクス著、植村邦彦訳、平凡社ライブラリー)には、3つの点で驚かされた。

第1に、難解な文章で知られるカール・マルクスが、その気になればこんなに分かり易い文章も書けるということ。第2に、同時代のフランスの政治状況をジャーナリストのような目で生き生きと描き出していること。しかも、楽しげに、揶揄を交えながら、饒舌に語っていること。第3に、ルイ・ボナパルトという何とも卑小な人間が国民投票で圧倒的な支持を得た理由が明快に分析されていること。

マルクスは、男子の普通選挙が実現した共和制下のフランスで、なぜルイ・ボナパルトのクーデタが成功し、しかも、その独裁権力が国民投票で圧倒的な支持を得ることができたのか、という問いに真っ向から取り組んでいる。

ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)が、共和暦8年ブリュメール18日(1799年11月9日)のクーデタによって独裁者となった過程は、よく知られており、理解が容易である。これに対し、ナポレオン一世の甥(弟の息子)であるルイ・ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン三世)が伯父のクーデタから約50年後のクーデタによって独裁権力を手にした経緯は、状況が錯綜していて理解し辛い。

なぜなら、ルイ・ボナパルトの時代は、正統(ブルボン)王朝派(階級的基盤:土地所有ブルジョアジー)、オルレアン(王朝)派(同:金融ブルジョアジー、大工業ブルジョアジー)、ブルジョア共和派(純粋共和派)(同:中産階級<ブルジョア、著作家、弁護士、官僚>)、小市民的民主派(モンターニュ派)(同:小市民<小商店主、手工業者など>)、社会主義者(同:プロレタリアート)、革命的共産主義者(同:プロレタリアート)、ボナパルト派(同:ルンペンプロレタリアート<浮浪者、除隊した兵士、出獄した懲役囚、詐欺師など>)といった諸党派が、国民議会の内外で、複雑に入り乱れ、離合集散を繰り返していたからである。

マルクスが立てた問いに対する答えを一言で言えば、こういうことになるだろう。権力簒奪欲に駆られたボナパルトは、あたかも伯父・ナポレオンの後継者であるかのように見せかけ、諸党派による複雑な利害関係をうまく操り、陰謀・詐欺・買収・強請(ゆすり)・恐喝・脅迫といった悪辣な手段を弄して、遂に念願の独裁権力を手中に収めたのだ。この事例を反面教師として、現代日本の我々が学ぶべきことは多い。

この本の表紙に採用されている絵画「ナポレオン三世の肖像」のいかにも卑しげな顔貌が象徴的である。

本書は、「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇(=ナポレオン)として、もう一度はみじめな笑劇(=ルイ・ボナパルト)として、と」という、皮肉たっぷりの書き出しで始まる。

「われわれが目にしている時代は、はなはだしい矛盾の最も混乱した混合物である。憲法に対して公然と陰謀を企てる立憲派、立憲派だと自分で申し立てている革命派、全能でありたいのにつねに議会制の制約のうちにとどまっている国民議会、辛抱強さで評判を得、未来の勝利を予言することによって現在の敗北を受け流すモンターニュ派。共和国の元老院最高位メンバーを構成し、状況に強いられて、国外では自分たちの信奉する敵対しあう王家を支持し、フランスでは自分たちが憎悪する共和国を支持せざるをえない王政派。自分の弱さそのものに自分の力を見つけ、自分が抱かせた軽蔑を自分の尊敬すべき点だと考える執行権力。王政復古と七月王政という二つの君主制の下劣さを合成し、帝国主義的なラベルを貼ったものにほかならない共和制」。どこかの国を髣髴とさせる混乱ぶりだ。

「ボナパルトの中では、帝位請求者と落ちぶれた冒険家とがひじょうに密接に融合していたので、自分には帝位を再建する使命があるという一方の偉大な理念が、フランス人民は彼の負債を支払う使命があるというもう一方に理念によってたえず補われていたのである」。権力欲と自分の借金を何とかしたいというご都合主義の二人三脚である。

「長い冒険家としての放浪生活が、彼(ボナパルト)のいうブルジョアから金をゆすり取れる、ブルジョアが弱気になる瞬間を手探りするための、きわめて発達した触角を彼に付与していた」。

「ボナパルトは、ボヘミアンとして、貴公子風のルンペンプロレタリアートとして、闘争を卑劣に遂行できるという利点を、破廉恥なブルジョアに対してもっていた」。マルクスの筆は辛辣である。

「この瞬間には、憲法の改正とは(ボナパルト)大統領の権力の持続にほかならなかったし、憲法の持続とはボナパルトの解任にほかならなかった。議会はボナパルトへの支持を表明したが、憲法は議会への反対を表明した。したがって、ボナパルトが憲法を引き裂いたときには、彼は議会の意向に添って行動したのであり、彼が議会を追い散らしたときには、憲法の意向に添って行動したのである」。憲法改正を企む勢力が急速に勢力を拡張しつつある我が国の状況と何と似通っていることか。

「具体的な結果は、議会に対するボナパルトの勝利、立法権力に対する執行権力の勝利、決まり文句の権力に対する文句抜きの暴力の勝利であった」。

マルクスは、このように、「グロテスクな一人物が主人公の役を演じることを可能にする事情と境遇を、フランスの階級闘争がいかにして創出したか、ということを証明する」ことに、見事に成功したのである。

植村邦彦という練達な、そして行き届いた翻訳者の手になる本書に出会えたのは、私にとって誠に幸運なことであった。