ナポレオンに叛逆した2人の人物、その名は「悪徳」と「犯罪」・・・【山椒読書論(393)】
『反ナポレオン考』(両角良彦著、朝日選書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、政敵たちの視点に立って、ナポレオンを考えようという、なかなか個性的な好著である。
あれだけ強烈な個性と赫々たる実力を発揮したナポレオンだからこそ、多くのナポレオン・ファンを誕生させた一方で、彼に反撥、抵抗、離反、挑戦した反ナポレオン的な人物も生み出したのである。
本書では、多くの反ナポレオン的人物が取り上げられているが、私は、「悪徳の論理――タレイラン」と「罪障コムプレックス――フウシェ(フーシェ)」の2人に吸い寄せられてしまった。
先ずは、タレイランの登場である。「ナポレオンは15年にわたる政権で38名の閣僚を登用しているが、その中で辣腕を振るった大臣といえば、タレイラン外務大臣とフウシェ警察大臣の2人をあげるのにだれも異存はないだろう。要するに彼らは強烈な自我の持ち主であり、社会的モラルを無視できるほど打算的である。また、体制の利益を享受しながら、その体制から距離を保つだけの知恵を備え、時ありてか、目的のためには手段を選ばぬ度胸の持ち主でもある。タレイラン(1754~1838年)という稀代の外交官は大貴族の家柄に生まれ、オータンの司教をつとめたあと還俗し、革命後の変転するフランス政権の中枢に実に40年にわたって身を置いた。処世の術にたけていた証拠である。当意即妙、活殺自在の弁を弄し、いかなる相手、いかなる場面にもたじろがぬ図太さ、押しの強さが身上だった。『タレイランは交渉ごとにかけては卓抜なものを備えている。社交性、欧州宮廷の知識、余計なことは言わず取り澄ましたところ、なにごとにも動じないポーカー・フェイス、それに自身が名門の生まれということなどである』というのがナポレオンの贈った寸評である」。
「しかも右足が不自由で、杖にすがる身でありながら、その切れ味の良い話術のおかげで、18歳のときの初恋の相手、お針子のジュリエンヌ・ピコーから、84歳の終着点での愛人、伯爵令嬢ドロテー・ド・ディノに至るまで、生涯を無数の女性遍歴でちりばめるという離れ業をやってのけている」。羨ましくないと言ったら、嘘になるなあ、女房にはないしょだが。
「『タレイランはブルボン家を連合国に売り、連合国をブルボン家に売った』のは事実だし、『執政府を、帝政を、皇帝を、王政復古をすべて売りとばし、最後の日まで売りとばすのを止めないだろう』(スタール女史)と指弾されても仕方がない悪役ぶりだった」。
ナポレオンとタレイランの関係は、どうなっていたのか。「ナポレオンとタレイラン、この2人は性格を異にした好敵手であった。『この男だけが実力の点でボナパルト(ナポレオン)と張り合えるだけのものを持っていた。ボナパルトはタレイランを嫌っても、手を切ることはできなかった。世間の目ではボナパルトの失脚を早めたのはタレイランと映るが、神の目にはボナパルトは自らの失敗によって倒れたのである』(ルドヴィッヒ)という見方に共感したい」。
次は、フウシェの番だ。「ナポレオンの閣僚のなかで、手腕・力量ともにタレイランに匹敵できたのは、ひとりフウシェ(1759~1820年)のみである。ただしタレイランが蓄財と外交に没頭したのと異なり、フウシェはオラトリオ会付属神学校の数学、物理担当教師の出でありながら、いつも暗い仕事にたずさわり、汚れた手は生涯拭われぬままに終わった」。
「フウシェ自身が国民公会からリヨンの反革命暴動の鎮圧に派遣されたとき(1793年11月10日)、数週間に2600名の処刑を断行したことである。いかに革命の狂乱にまきこまれたとはいえ、またいかに若気のいたりとはいえ(34歳)、この非人道的な所行には弁解の余地はない」。
ナポレオンとフウシェの関係はいかに。「ボナパルトは『同時に至るところに存在する特技の持ち主』として、つまり多数の密偵を操る秘密警察の親玉として、フウシェの才能と実績を高く評価した。その一方でクーデターを助けてもらった負い目と、私生活の秘密を握られていることからくる『不信と嫌悪の念』も拭いきれず、『厄介払いしたくて本人の周りをぐるぐる回りながら、なにか魅入られたように手出しができなかった』(ティボドー)という奇妙な関係にあった」。
「フウシェがとろうとする政略の基本は、議会に、ナポレオンに、ブルボン家に、連合国に、すべての相手に恩を売り、保険をかけまくることにあった」のである。
タレイランとフウシェの関係は、どのようなものだったのだろう。「フウシェとタレイランはナポレオン政権の内政と外交を支えた車の両輪でありながら、『互いに仲良く憎み合った』(ティボドー)。『時至らば、タムプルの牢獄にタレイランを収容する空き部屋が待っている』と前者がうそぶけば、『フウシェが人間嫌いなのは自分自身をよく研究したせいである』と後者がやり返す」。
そして、象徴的なシーンが展開される。「国王(ルイ18世)の許に、フウシェがタレイランと連れ立って宣誓のため伺候したとき(1815年7月6日夜)の情景をシャトーブリアンが印象的な文章で残してくれている。『突然扉が開いて、悪徳が犯罪に腕をもたれながら、音もなく入ってきた。タレイラン氏がフウシェ氏に支えられてのご入来である。この地獄の光景は私の前をゆっくりとよぎって、国王の執務室に消えた。フウシェは主君に忠誠と敬意を表しにやってきたのである。国王殺しの臣下は跪いて、ルイ16世の首を落とした両手をば、その国王の弟の手の中に置いた。還俗した司教(タレイラン)がその宣誓の証人として立ち会った』。ルイ18世はフウシェを警察大臣に任命する書類を前に、机に突伏し、ペンを落としたまま動かなかったが、『不幸な兄よ、宥し給え』と唱えつつ署名を了えた」というのである。