石井桃子は私の子供時代の近所の有名人、高峰秀子は私の理想像・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3826)】
『石井桃子 高峰秀子』(石井桃子・高峰秀子著、川上弘美編、文春文庫・精選女性随筆集)では、石井桃子の「井伏さんとドリトル先生」と、高峰秀子の「愛の告白」がとりわけ印象に残りました。
●井伏さんとドリトル先生
▶私は、その年の二、三年前に出版社勤めをやめ、二年前に母を亡くし、生まれた町に住む理由をなくして、井伏(鱒二)さんのお家のかなり近くの、杉並区荻窪へ引っこしてきていた。私が一ばん度々、井伏さんをふらりとお訪ねしたのは、そのころのことではなかったろうか。・・・私は、こうして友だちから送られた「ドゥーリトル先生のお話」をたいへんおもしろく思い、次に井伏さんをお訪ねすると、早速その粗筋をお話しした。・・・紙の配給やお金のことは、ほかの友人が心配する、私の役目は、井伏さんに「ドゥーリトル先生のお話」を訳してくださいとお願いすることというところに、私たちの間で事は勝手にきまってしまった。・・・『ドリトル先生「アフリカ行き」』は、戦争ちゅうにもかかわらず、日本の社会に迎えられ、戦後は、続篇が延々十二巻まで、井伏さんを文字通り煩わしつづけたから、私のいま言える本音は、「井伏さん、ごめんなさい。長らく創作のおじゃまをしました」なのである。
私の子供時代、『ノンちゃん雲に乗る』の作者・石井桃子は近所の有名人でした。私が育った荻窪の家から徒歩数分の所に彼女が開設した児童図書室・かつら文庫がありました。
●愛の告白
▶お通夜のあと、ガランとした居間で、私は梅原(龍三郎)先生と二人きりになった。「先生、ママはきれいな人だったね。きれいなまンまで亡くなってよかったと思うよ」。「ああ、そうだ。オバアはもともときれいだったがね、年をとるにつれてだんだんきれいになって、死ぬ間際はいよいよきれいだったサ」。これは間違いなく、梅原先生の愛の告白である。八十四歳という年を重ねて、なお、最愛の男性(ひと)からこんなに美しい愛の言葉をもらう艶子夫人こそ、女冥利に尽きる、ということだろう。何から何まで、どこからどこまで、艶子夫人は「見事な女性(ひと)」であった、と私は思う。
私は女優・高峰秀子、『わたしの渡世日記』の著者・高峰秀子の大ファンで、彼女に関する本はほとんど読んできました。小気味のいい、ズバリと核心を衝く文章を紡ぎ出す高峰秀子、自分の考えをしっかり持ち、その考えどおりに見事に生きた高峰秀子は、私の理想像です。