榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

情熱という名の女たち(その6)――ナスカの地上絵の謎に挑戦し続けた女・・・【情熱の本箱(6)】

【ほんばこや 2013年1月16日号】 情熱の本箱(6)

ドイツからペルーへ

故郷ドイツから遠く離れた南米ペルーの砂漠の中に住み着き、謎に満ちたナスカの地上絵の研究と保護に、生涯を懸けて、たった一人で取り組み続けた女性がいる。若き数学者、マリア・ライヘ(1903~1998)が、そこまで惹き付けられたナスカの地上絵の魅力とは、何なのか。

1932年、ライヘは家庭教師となるため、ドイツからペルーへと旅立つ。「私はどうしても、ドイツを出たいと思っていたの。政治的に、とても難しい時代を迎えていたわ。なかなか仕事は見つからないし、何よりナチスが、恐ろしい勢いで力を伸ばしていた」と、後にライヘ自身が楠田枝里子に語っている。

地上絵との出会い

1936年ごろから、砂漠を横断する飛行機が増え、ナスカのパンパ(大平原)の辺りに何やら奇妙な模様が見えると、パイロットたちの間で噂になり出していた。地上絵の発見者であるペルーの考古学者、フリオ・テーヨの助手として、その後は、ナスカを訪れたアメリカの歴史学者、ポール・コソックの助手として、地上絵との関係を深めていくライヘ。コソックから「ナスカのラインは灌漑用水路とは関係なく、天文学的な意味を持っているのではないか」というアイディアを聞かされたライヘが、「それは、私の運命でした。私はそのために生まれてきたのだと、直感したのです」と感激し、「全ての秘密を解き明かさなければ」と固く決意したのは、1940年のことであった。

ナスカの地上絵が世界の注目を集め、ライヘの名が知られるようになっても、活動資金はごく僅かであった。彼女は文無しになると、リマに出て翻訳、語学教師、体操教師などで当面の資金を捻出し、また砂漠に戻ってくるのだった。そして、1949年にやっと、『砂漠のミステリー』をぎりぎりの経費で自費出版することができたのである。

ライヘの学説

ライヘが黙々と研究を続けていた1952年、彼女の目の前にサルの地上絵が出現したのだ。これはナスカで最も重要な意味を持つ地上絵の発見であった。「体ごと飛び上がってしまったわ。こんな幸福感、味わったことなかったわ」。幾日もサルの傍で過ごすうち、「もしかしたら地上絵は、天上の星座を写し取ったものではないかしら」という閃きを得る。世界各地で、古代の人々が夜空の星々の輝きを眺め、それらを繋げて、さまざまな形を思い描いていたことは、よく知られている。幾何学模様やハチドリ、クモ、コンドル、サル、トカゲなどの動物の巨大な地上絵がなぜ描かれたかについては諸説があるが、ライヘの「天文図・暦説」が最も説得力のある仮説として、広く認められている。また、宇宙飛行士たちからは、「ナスカ平原の模様は全く見えなかった」との報告がなされている。これでは宇宙人にとって何の目印にもならないと、楠田が「宇宙船発着場説」を痛烈に皮肉っている。

ライへは、1955年以降は、パンパを開発しようとする勢力と闘い、押し寄せる観光客に悩まされることになる。自分の身長ほどもある細長い箒で丁寧にラインを掃き、余分な石を整理して、荒らされた地上絵を修復して回るライヘを、人々は敬愛の念を込めて、いつしか「マドレ・デ・パンパ」(大平原の母)と呼ぶようになったのである。

参考文献
・ReicheMaria:The Nazca Lines Theory:Labyrinthina.com1980
・『ナスカ 砂の王国――地上絵の謎を追ったマリア・ライヘの生涯』 楠田枝里子著、文春文庫、1990年
・「三つの人生」 辰見亮著、悠草舎『戦争が終わって』所収、2005年