榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

モーツァルトは、貧しくなく、バッハに学び、ゲーテに愛された・・・【情熱の本箱(47)】

【ほんばこや 2014年9月6日号】 情熱の本箱(47)

音楽は私の不得意分野で、クラシックはヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルトのCDしか聴かないという偏りぶりである。こういう私にとっても、『モーツァルト』(礒山雅著、ちくま学芸文庫)は文句なしに面白かった。

特に興味深いのは、次の5点である。第1点は、世評とは異なり、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは貧乏ではなかったということ。第2点は、地道なことは苦手な性格と思われるのに、自作品の詳細な目録を作成していたこと。第3点は、「成長する女性」が好みで、各オペラの中でそれを追求していること。第4点は、ゲーテとモーツァルトが互いを高く評価していたこと。第5点は、バッハとモーツァルトの音楽は異質であるが、モーツァルトがバッハから大きな影響を受けていたこと。

第1点に関して――「『貧しいモーツァルト』というイメージは、根強い。研究者がいかにそれを正そうとしても正しようがないほど、モーツァルトが孤独のうちに見捨てられ、募る貧困と戦いながら名作を綴ったという同情すべき物語は、世間に根を張っている」。著者は、こうしたイメージを粉砕すべく、モーツァルトの最後の4年間における「ふところ具合」を丹念に辿っている。

第2点について――「モーツァルトの作品は、Kという番号をつけて整理されている。Kはルートヴィヒ・フォン・ケッヒェル(1800~77)という人名のイニシャルである。ケッヒェルは、1862年にいわゆる『ケッヒェル目録』の第1版を出版し、その中で、モーツァルトの作品に成立年代順の番号を振った」。「(モーツァルトの)600曲を超える作品を年代順に並べることは、至難の業である。それが可能になったのはなにより、モーツァルト自身が、その後期に、自分の作品目録――通称『自作品目録』――を作成していたためにほかならない。モーツァルト自身が自分の作品をこのように『管理』していたということは、まことに注目すべき事実である」。なお、この自作品目録は、その後、若干の経緯を経て、ツヴァイクの入手するところとなる。ツヴァイクは、モーツァルトの遺品中、これを最も価値あるものと見做していたが、現在は大英図書館のライブラリーに収められている。

第3点の「成長する女性」仮説は著者独自のもので、とりわけ興味深い。「強調したことの一つは、モーツァルトの『人間好き』であった。モーツァルトは幼児のころから人なつこく、人見知りせず、どんな人ともすぐに友だちになれるような性格であり、それは、終生変わらなかった。反面、人に距離を置くことは苦手で、貴族にことさらへりくだったり、聖職者を敬ったりすることができなかった。当時のことであるから、こうした性格で損をすることも、よくあったのではないかと思う。『人間好き』の『人間』の中に女性が含まれていることは、いうまでもない。モーツァルトが女性を愛したことは、伝記的事実をもちだすまでもなく、作品からも直観されるところである。女性に強い関心を抱いていない人が、『ドン・ジョヴァンニ』のような作品の作曲者となることなど、あり得ない。このことは、モーツァルトが当時も今もとりわけ女性に愛される音楽家であることと、表裏一体をなしている」。

「ここで私は、ひとつの仮説を提示したい。すなわちそれは、『オペラのなかで成長するキャラクターに、モーツァルトはとりわけ共感を覚え、その人物をいわば心の主役としてオペラを書いた』というものである」として、各オペラの中で、その実例を示している。

第4点については、先ず、モーツァルトの歌曲の代表作と見做されている『すみれ』が、ゲーテの詩を作曲したものであることを挙げておかねばなるまい。そして、「この歌曲をゲーテがどう受けとめたかは明らかでない。しかしゲーテが大のモーツァルト愛好家であったことは、モーツァルトのこうした演劇的傾向が、ゲーテの志向と一致するものであったからではないだろうか。1763年の8月、ゲーテはフランクフルトで、7歳のモーツァルトが姉とともに行ったコンサートを聴いた。ゲーテ自身は、満13歳のときである。ゲーテは、『かつらと剣をつけた小っちゃなやつ』のことを、後々までも覚えていたという。ゲーテは、オペラ作曲家としてのモーツァルトをことに賛美し、彼を、ラファエロ、シェークスピアと並び称するほどであった」というのだ。

第5点に関して、著者は、モーツァルトがバッハの音楽に出会わなかったら、モーツァルトの晩年の音楽の深みは生まれなかったはずだとまで言い切っている。「モーツァルトは、バッハの亡くなった6年後に生まれている。したがって両者は会ったことがない。しかしモーツァルトにとって、バッハは、重要な意味をもつ存在であった。いや、重要な意味をもつ存在になったのである。モーツァルトはバッハの音楽をまったく知らぬまま成人したが、それだけに(26歳で、バッハの音楽との)印象的な出会いを経験し、そこから、多くを学ぶことになった。バッハの音楽との出会いがなかったら、モーツァルトの晩年の音楽は、何ほどかの深みを欠くことになったのではないかと思われる」。モーツァルトはバッハのフーガ様式の模倣から始め、それを深化させていったというのである。「(『ジュピター』交響曲のフィナーレの)圧倒的に力強い高揚感は、バッハの応用どころか、バッハにも見られない、新しい可能性の開拓になっている」。

巻末に、「モーツァルトを知るための15曲」という簡にして要を得た解説が付されているのも、嬉しいことだ。